趣味のおもちゃばこ

メタル・ロックと百合とたこやきとお話を書くことが好きな私、雨宮 丸がつぶやく多趣味人間のブログです。

候の夏空さん 【R-18】

『私は、今までの私を棄てた。私は、私はいつまでも昔の私じゃないんだって……!』

 

 

※ご注意!

・このお話には性的な表現が含まれています。未成年の方の閲覧は遠慮願います。

・このお話は人によって不快を与える表現が含まれ、ショッキングな描写で書かれた箇所があります。

 

 

以上の点を了解した上で閲覧して頂くようにお願い致します。

それではお楽しみください。

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 季節の変わり目が運んできてくれるそよ風は、匂いだけでどんな季節がやって来たかすぐに分かる。春は甘い花たちの香りや暖まり出した優しい空気を、冬はハッカ飴を舐めた時に鼻から抜けるようなしつこくない透き通った冷たい空気。

 そして今は乾いたアスファルトの匂いが風に乗って照り付けるような陽射しと共に夏がやって来たと教えてくれている。それらはまるで、首を長くしているほど待ち続けていた私宛の贈り物が届いた時のようだった。

「紗綾ー! さ・あ・や!」

 教室の窓から空を眺めながらぼんやりとしていると、私の背後から私の名前を何度も呼ぶ声が聞こえてきて徐々に大きくなっていく。その声の主には聞き覚えが合ってまたかと思いながら振り返る。そこにいたのは、ブラウスの二番目のボタンまでを外し、校則に障りそうな丈のスカートを穿いている、小学校時代からの親友の善方 陽(ぜんぽう あきら)がこちらに向けて手を振っていた。彼女の表情は晴れ晴れとして、これから楽しみにしていることをどれからやろうかと言うような表情を滲み出していたのである。

「……なんだって機嫌いいじゃん。夏休みだからって浮かれすぎ何じゃないの、陽?」

「だってさぁ、期末テストも終わって待望の行事がやって来たんだよ!? これは喜ぶしか無いでしょ? だから喜んでいるのだよ!」

「はは……あっそ」

「うわ……紗綾冷たすぎでしょ……。つまんないなー」

 こちらとしてはよくもそんなに騒げるものだと思ってしまうが、これが陽の性格なのだ。今更とやかく言うつもりもない。陽の方も私とのやり取りも慣れているようでつまらなさそうな表情もすぐに無くなって笑顔を見せながら私の席の前の椅子に逆さ座りで腰を掛けた。

「でもさ、夏休みになったんだからさぁ、もう少し嬉しそうにしてもいいじゃん? 幾ら紗綾が根暗だって言ってもさ?」

「……誰が根暗よ……?」

「あはは! 怖い怖い」

 いつもの会話の中での言葉とはいえ少しだけ癪に障る物言いに陽の姿を睨みつけて彼女に返事をする。その返答に陽は苦笑しながら私の顔の前に手を合わせて謝罪の意を見せたのである。

 陽が言った通り今日で学校の上半期の授業、一学期が終りを迎えて夏休みへと突入した。今日が一学期最後の登校日ということもあって授業らしい授業もなく、学校自体は午前中で終了したのだ。そこから先は二学期が始まるまではそれぞれの自由となる。今年で高校も三年目に突入した私たちはもちろん教師たちに『未来を見据えた有意義な休暇を過ごすように』と口酸っぱく言われていた。けれど私を含めるクラスのほぼ半数がその言葉に対して舌を出していたのだ。その訳とは折角の休みだから少しくらい……ということである。そういう理由があって、朝は人で賑わっていたこの教室も今ではほとんど……いや、私と陽を除く全員が各々の楽しみを胸に教室を後にしていった。言ってしまえば、何も予定がない者たちだけはここに取り残されているのである。

 しかし、ほぼ半数の意見の一人の私が言えることではないけれど、受験勉強を度外視するのは如何なものだろう。やはり少しは備えておかなくては……。

「ねえ、紗綾は帰らないの? もうすぐお昼になるよ」

「うーん。特にする予定も無いからここにいるんだけどな」

「はは、紗綾らしいや……。ま、私も人のこと言えないんだけど」

 陽はそう言って椅子の背を掴み、それにもたれかかって彼女の後頭部をこちらに見せている。その様子を見ていると、陽の長くまっすぐな栗色の髪の毛が外から降り注ぐ眩しい日差しに照り返って思わず眉を顰める。

「そう言えば紗綾、テストどうだったー? 今日で全教科返って来たでしょ?」

 私と陽は違うクラスに居るためにそれぞれで行われる行事も授業も違う。だからたまに二人で会ってはこうやってそれぞれの意見交換をするのだ。その内容は様々で、あの教科のテストはこんな問題が出たとか、人間関係だとか。他愛のない話で盛り上がるのである。

「はは……陽? 私にそんな質問していいの? 答えは分かってると思うんだけど……聞きたいなら聞かせてあげるよ」

「うっわ、性格わるいー……! そうだよねぇ紗綾頭いいもんね? ハイハイ……」

「ふふ……うそ、冗談だよ。今回はちょっとだけ点数悪かったし」

「でも学年は一位でしょ? 陽は見たぞ! 学年順位表の頂に堂々とそびえ立つ『藤原紗綾』という四文字を! ああ、憎たらしい!」

「……。うん、ソウダネ?」

 この学校では学期末ごとに学年別で成績の順位を上位二十位まで貼り出している。私立である学校側としては『記載のある生徒たちのように、日々勉学に励み次こそはあそこに名前が載るようにと努力を続けて欲しい』という理由で貼り出しているようだが生徒間では『出来る・出来ない人間を別けるための公開処刑だ』と言って大体の人間が白い目で見ているのである。言い辛いが、この制度は辞めるべきだと思う。だが、偉い人間が考え直さない限りは永久にこの制度が続いていくことだろう。

 その学年順位表の主席に私の名前が記されている。こちらからすれば特に変わったことはしていないのだが、目の前に居る陽のように羨む人も居れば影でコソコソと私の後ろで囁く人もいる。そういった経緯もあってこの順位発表は辞めてもらいたいのである。正直気が気でない。

「あーあ。秀才はいいねぇ。先生からは評判いいし、大学受験もとんとん拍子だもんね……」

「……。あのね、私だって勉強してこうなってるんだから、厭味ったらしく言わないでよね。大体ね、本当にできる人はいつまでもブーブー言わずに次のステップに行くものなの」

「……ふうん」

 少しだけ厭味らしく言い放つ陽の言葉に反応して片目がぴくりとする。いまいち釈然としていない陽の方を見ながら私は言葉を紡いでいくのだった。

「……陽、陽だって今回学年で二十位だったじゃん。今はこうやって文句垂れてるけど、その前は私に負けないくらい無口だったでしょ? 根暗もいいところだったよ、あの時は」

「根暗じゃないやい! だって、私も大学に行くために努力してるんだもん……紗綾と一緒の所に行きたいから」

「うん。だから一緒に勉強したんでしょ?」

「……うん。結局紗綾に頼りっぱなしだったけど」

「それでも構わないんだよ。頼りまくってたって実際の実力になっていれば。最後の方なんて私は教えてなかったし、休み時間いつも予習してたでしょ。それが今の結果……実力なんだよ、陽。前なんて百位圏内からも外れてたのに」

「……。あーあ! 私の影の努力を褒めてくれた紗綾の言葉にキュンとしちゃった自分が馬鹿らしいや! この妖怪・主席女! ちぃーっとも羨ましくなんてないんだぞ!」

「あははっ……。ごめん、最後のは言葉の綾だって」

「ふーんだ! ……。だけど、紗綾に教わらなかったらこうはならなかったのは確かだよね。……ありがと、紗綾……」

「……。ううん。頑張ったね、陽……」

 ふてくされた様に陽は頬を膨らませ、彼女の釣り上がり気味の目は窓の外を睨んでいる。いつものことではあるが、時折見せる彼女の子どもっぽい所は見ていて微笑ましくなってくるのだ。既視感というか、親友の陽や他の人たちでも子どもっぽい仕草……素顔をありのままに見せてくれることが大好きなのだ。

 それはそう――あの夏空さん……ミサヲのことにもぴたりと重なり合って再認識する。夏休みになれば、盆になればミサヲに逢うことができる。あのあどけない笑顔、無邪気な笑い声……そして、弾む声色からも気持ちが伝わってくるミサヲの全てに今年も逢えるのだ。それを考え出したら、にやけが止まらなかった。

「……紗綾?」

「……! ご、ごめん……なんだっけ?」

「ううん……。急にニヤニヤし出すから、私に対してそんなに優越感に浸ってるのかなって軽蔑しただけ」

「な……!? ち、違うよ……!」

「アハハ、分かってるって。それに、あのニヤけ方は……恋する女の顔だったしね」

「……へ……!?」

 そう陽に言われて顔がかなり熱くなる。確かに、私は丁度ミサヲのことを考えていたものだからにやけていたのだ。

 それは去年のことである。私は父の地元へ帰省するのについて行ったのだ。無論、暇だったからついて行ったのではない。あんなに遠くへ行くならば父たちについて行かずに陽たちとお泊り会でもしていたことだろう。私の目的は父の地元に住んでいた、見た目は私と同い年の日下部(くさかべ)ミサヲに逢うためだった。彼女の名前を知る前は、初めて見た時の景色を取って『夏空さん』と呼んでいたが話す内にミサヲと呼ぶようになったのである。

 その高校二年の夏休みに私とミサヲの距離は一気に縮まり親友の域はおろか互いに好きと言い合ってしまうという領域まで、たった二日間で出来上がったのだ。現に私は彼女のことが好きだし、夢の中に時たまミサヲの姿が出てくるほどである。あの黒髪の長い髪に小柄で愛くるしい表情と姿が私の頭の中を埋め尽くす。時々父の地元の町のホームページに掲載されている自然の風景を見てはその時のことを、そろそろその時期が訪れることに胸を踊らせているのだ。その時の私の表情と言ったら、自分自身でも悲鳴を出すほど酷い表情をしているのである。

 

 ……だが、ミサヲと逢うことができる反面、それらは辛い時が訪れることを意味しているのだ。何故ならミサヲは――この世界には居ない存在……幽霊であるからだ。

 それ故彼女を毎日見ることは出来ない。既に、亡くなっているのだから……。

 

「あはは! 紗綾、顔真っ赤! ウブだねぇ」

「ち、違うもん! これは……!」

「……。でもさ、紗綾」

 陽はそう言うと立ち上がって私の顔を見つめる。そして彼女は心の底から喜んでいるような笑顔を私に向けて口を開いたのだった。

「可愛くなったよね、紗綾。性格はそんなに変わってないけど……こう、キラキラしてるというか? そんな感じかな」

「……か、かわいい……?」

「うん! これぞ十代の乙女の顔って感じ! ヒュー! 紗綾ちゃんかっわぁいいーっ!」

「……。……ふふ、ばあか!」

 わざとらしく振る舞う陽をとっ捕まえようと、彼女と同じように席を立って教室内へ駆け出す陽を追いかける。捕まえると言っている割には私の手脚は踏ん張ることなく、ただ単に鬼ごっこをしているような程度の力で教室中を駆け回っていく。

 高校三年にもなってと、端から見たらそういう風に言われてしまうのかもしれない。だけどこうして童心に返って仲の良い人間と過ごすのは何にも代え難い財産だと考えるのだ。私たちはいつまでもこうして居ることは出来ないのだ。そのことを、去年ミサヲと出逢って改めて考えさせられ教えてくれたのだ。だからこそ私はその教えを胸の中でいつまでも繰り返して呟いていたい。

 だけど今の私の中に眠っているのは去年までのミサヲのことである。そして今、再びミサヲと逢えるかもしれない季節がやって来たのだ。一年に一度きりしか関われないあの人と、二日間で一年分の楽しみを欲張りたい。去年よりもずっと、ずっと……。



「でさ、紗綾。彼氏くんはどんな感じのいい男なの?」

「……何の話?」

「もー! すましちゃって! 恋人ができたんでしょ? 大大大親友の陽ちゃんに話してくれても良いのだよ? 写真があればなおよし!」

「……別に彼氏ができたとは一言も言ってないけど?」

 私たちはあれからそろそろ帰ろうと決め合って、どうせなら昼食を食べてからと言って駅近くのファストフード店にやって来ていた。二人揃っていつも決まったものを注文して、いつもの席に座る。そして私は陽に教室で話していたことについて問い詰められていた。

「えー? 男じゃないの?」

「もう、すぐそうやって異性の話に持っていきたがるんだから……。第一、私に男の人が付くと思う?」

「ううん」

「……何よ!?」

 昼時ということもあって周りは人で溢れ、彼らが話す言葉で周囲は埋め尽くされていく。それでも、陽の返事は強調されて耳にこびり付くのだった。

「だってさー紗綾ってあんまり喋らないから手厳しそうなイメージがあるって先輩言ってたしなぁ」

「うっ……」

「それに一つひとつの返事が短いからお堅い感じがあるとも言ってたっけ」

「うぐ……」

「それにムッツリじゃん?」

「た、たしかに……って、違うから!」

「あっ! 今認めた!」

 陽から私に対しての周りのイメージを淡々と突きつけられクラクラしてくる。私のことは私でしか解らないないのだからそう言った意見を言われると気になってくるものだ。だが、ムッツリスケベということは断じて違う。

「ホントのことじゃん。だってたまに他の人たちがエロい話してるとニヤニヤしてるじゃん? 表に出さない紗綾だけど、こんな風に抑えきれない悦びを感じると顔に出るんだなって納得しちゃった」

「だ、だから違うって……!」

「ほらほら! そうやってすぐ顔真っ赤になる! わっかりやすー……」

 陽に言及されて思わず立ち上がる。その姿を見て陽は眉でアーチを二つ作ってこちらの様子を窺っている。おまけに彼女は涼しい表情をしながらオレンジジュースを啜っているではないか。私は陽のその様子を見て漸く気が付いて、顔を火照らせたまま静かに着席する。否定を主張しようと立ち上がってしまうなんて陽の言う通り、思うツボである。

「うぅ……。バカ、陽の大バカ……!」

「あはは……ごめんごめん。紗綾のその反応が好きでさ! いやーしかし、紗綾は嘘がつけないタイプだね?」

「……ふんだ。どうとでも言ってよ。どうせ私は融通が効きませんよぉだ……」

「でもさ、男子からは人気があるみたいだよ? 頭は良い、黒髪美人でおまけに長身スレンダー……妬けちゃうなぁ、人気者の紗綾ちゃんには……」

 どこで調べたのかは知らないが、それが事実ならば悪い気はしない。けれど、今の私には今のところ男性にはあまり興味がない。私の中で男性というと父が真っ先に思い浮かぶ。ふくよかな体型ゆえ多汗で油っぽく、最近だと歳のせいか若干臭う。全ての人がそれに当てはまる訳ではないが、父の印象を考えると多少の引け目を感じる。

 私はどちらかと言うと柔肌の人の方が興味を唆るのだ。小さい頃によく人形遊びや花を摘んで冠を作ったりと、華やかな物事の方を好んでいたのだ。それに、体育の授業で目に行くのはどれも女性ばかり。半袖を着ることが多くなってきた今の季節は手脚の露出を嫌でも見てしまうというものだ。それらを見てると、言葉は出さないにしても心の中で良いなと思うのである――

「……って……! わ、私……そういう気が……!? ち、ちが……」

 自らの最近の心境を辿ってみて思わず頭を振る。考えてみれば女性の太腿を羨む要素として綺麗だとか細いという私に無い物ねだりをするのではなく、柔らかそうで暖かそうなそれに触れてみたいと思ってしまっているのは確かなことであった。

 ……ということは、やはり私は……!

「……。まあ、ミサと……しちゃった訳だし、否定は出来ないかも……」

 ふと去年の光景が思い出される。

 夜も深まり始めた神社の社の中で口付けを交わし、互いの思いを打ち明け合って――果には外に居るにも関わらず身体を重ね合わせて交わりあったのである。その時の気持ちの昂りと言ったら生きてきた今までの中で最高のものであり、その日のことを思い出しては一人で慰めることも多少なりになる。それを考えると、私が気が付いた今の私の本性は、どうやっても言い逃れることはできなかった……。

「……紗綾? どうしちゃったの、いきなり頭を振っちゃってさ? おまけに顔が増々赤くなってるし……」

「き、気のせいだよ! うう……!」

 他人のことだという姿を絵に描いたような様子で陽はフライドポテトを頬張っていた。ふと陽のフライドポテトを食べている様子を見てみると、陽の淡い桃色のふっくらとした唇が油に濡れて、咀嚼する度にねっとりとした動きを見せていた。そんな陽の唇にさえもどきりとしてくる。

 確かに陽は綺麗で整った顔をしている。本人が「もっと可愛くなりたい!」と言う割には鼻筋も通り性格だって悪くはない。それに身体を動かすことが好きだと言っているだけあってスタイルが良いのである。それに癖になりそうな甲高い声色も心地が良いというものだ。

「……。私、なんで陽にドキドキしてるんだろ……? 最低……」

「え? 私にドキドキしちゃったって? そうかそうか、やっと私の美貌に気付いてくれたか……! ああ、私はなんて罪な女……!」

「……前言撤回。ちっともドキドキしなくなった」

「んな! そんな堅いことを言わずにさぁ……」

 陽はそう言って私の手の甲を擦ってくる。フライドポテトを触った後の指で触られて手の甲は油でベトベトだ。

「……。でもさ紗綾、さっきから変じゃない? 何か隠し事かな……?」

「べ、別にそういう訳じゃ……」

「……そっか。ならいいよ。私は紗綾のこと信じてるし、さ」

「……陽」

「だけど、相談になら何時でも乗るよ! 親友の悩みだもん、水くさいのはナシ!」

「あは……。そうだね、それは私も同じだよ。……私がずっとそわそわしてるのは、お父さんの実家に行けるから。それだけ」

「お父さんの? ああ、こんな都会に居続けると空気悪いし……憩いを求めて浮かれている訳だ」

「あはは。ま、そういう所」

 実際には、去年知り合って仲良くなり――生まれて初めて恋心を抱いた、ミサヲが目的とは少々言いづらかった。恋心を抱いているというのも気恥ずかしいし何よりミサヲは幽霊なのだ。そうとなれば混乱を招きかねない。普通の人には見えないものが見えているのだから、解ってもらうことも話す必要もない。けれども、陽が言ってくれたことは素直に嬉しかった。

「……でもさ、紗綾」

「うん?」

「好きな人が出来たら言ってね! 相談に乗りたいし、私も応援してあげたいから。……ホントだからね!」

「……。ふふ、うん。ありがとう。陽のことは信じてるよ、私。陽の方こそ好きな人出来たら教えてよね。陽が応援したいっていう気持ちは私も同じなんだから」

「……! えへへ、うん!」

 陽はそう言って再び笑顔を浮かべて後ろ頭を掻く。この仕草は彼女の昔からの癖で本当に嬉しい時だけに見られる仕草だ。

「ねえねえ。ご飯食べたらどこかに寄り道してから帰ろうよ。陽ちゃんとのデート権は今なら紗綾ちゃんだけなのです!」

「えー? デートならパス」

「なんで!」

「陽とのデートなら飽きたから」

「ひっど! そんな連れないことを言わずにさぁ? ねえねえ」

 陽はまたしても私の手を握って手の甲を擦ってくる。唇を尖らせ大きめの二重の瞼を薄らに開いて強請っている。可愛い表情をしているとはいえ、陽がやると気色が悪いものだ。

「……そんなおねだり光線を出さなくても……。分かったから、そんなに手を擦らないの! キモい」

 その言葉に陽は手を離し再び笑顔を見せる。

 十何年の付き合いの陽だからこういうやり取りは慣れているし口ではああ言っていても本当に嫌な訳ではない。機嫌が悪い時は別だけれど、こんな些細なやり取りがいつもの風景だと認識出来て安心感が持てるというものだ。

 しかし陽とは友だちとして好きであるが特別な感情は抱くことはない。ならばこのやり取りがミサヲだったら、彼女と触れ合うことが出来たのなら。私の心はどんな風に揺れ動くのだろう。――最近は日常の中のこと全てを、陽とのいつものやり取りでさえミサヲと一緒だったらと考えてしまう。それは一年に一度しか会えないミサヲと逢えることに浮かれているからなのか、去年の二日間でしか話したことがなくミサヲの情報が少ないから想像をしてやり取りを妄想しているのかは私でも解らない。

「じゃあさ、最近リニューアルした西口の方に行ってみようよ! あっちの方にアンティークの小物屋さんが出来たって聞いたし、気になるしさ! ……って、紗綾?」

 だけど何となくだが解ることがある。――漸く、好きだという気持ちを抱いた、ずっと隣に居たいという人に逢える。それだけで私の心の中に棲み憑く寂しがりの気持ちが声を震わせて身体の奥底から湧き上がってくるのだ。その勢いは寒気がしないのに、背中の方が急にぞくりとして身体が汗ばんで、氷の入れられたコーラを包んでいる手のひらでさえ熱くなって冷たさを感じないほどだ。

「ちょっと、紗綾! コーラが! そんなにカップ握ったらコーラが……あーあ……!」

「……は!? うわっ! 冷たっ!?」

「な、何か怒ってる……訳じゃないか。またニヤニヤして、そんなに私とのデートが嬉しい?」

「ち、違うったら……」

「ほら、ハンカチで拭いてあげるから動かない! よいしょ」

 いつの間にか両手で包んでいたカップを押し潰していたようで中に入っていた物が溢れ私のスカートに降り掛かってしまった。陽は席を立ち、ハンカチを片手に持ってこちらに近付いてくる。飲み物が掛かってしまった箇所はスカートの下半分から太腿にかけてである。場所も場所であるために陽は椅子に座る私の側に跪いて丁寧に優しく叩きながら拭き取っていく。

「……っ」

 だが服装に乱れが見られる陽の格好でそうされると、第二ボタンまで開けられた胸元は小麦色で水着を着た跡と思しき部分が元々の白い素肌の色で分かれていた。そして、僅かにではあるが陽が動く度に服が動いて、その中で踊る大きめの乳房も弾むように揺れて身に着けているオレンジ色の下着にさえも思わず喉が鳴る。もしかしたらこれは第二ボタンから下を外してしまったら全て見えてしまうのではないだろうか。まったく、これは危なくも憎めないものだ……。

「……よし、制服は暗い色だから染みは目立たないかな。でも早めにクリーニングに出してもらってね……って……。……紗綾?」

「……むむ……」

「……。紗綾のスケベ! エッチ!」

「! な、なに……!?」

 つい陽の方を凝視していたようで、陽の一声で我に返る。すると陽は胸元を両腕で隠し睨みつけている。しかし彼女の口元は釣り上がりニタニタと笑っていた。

「やーっぱりムッツリスケベだ! そんなに私のカラダに興味ある?」

「……そ、そんなこと……! ……。……ごほん。ふっ、私が陽に負けてるのはおっぱいだけだなって改めて思っただけ」

「なにおう!? 鼻の下を伸ばしてるのかと思ったらなんて見下した発言なんだ! 私は胸だけじゃないぞ! キー!」

 両腕を振りかざしわざとらしい威嚇の構えを取って見せる。その様子が面白くて吹き出すと陽もつられて笑い出す。

 こんな風ないつもの風景だけど、これはとても落ち着けて安心するものだ。このままずっと過ごすのも悪くはない。だけど私は、遠く離れた土地に住む――その場所に居る人に逢いたい……逢いに行きたいのだ。その場所は私の父が生まれ育った場所で、冬になると降雪が非常に多い地域である。今の季節では流石に根雪さえも残ってはいないと思うがその名残は今でもあるだろう。冬の間に貯まり夏になって流れ出てきた雪解け水が流れてくる音を思い返すと、青々とした囲まれるようにして立つ山々と広く並んだ田畑、そしてやはり思い出すのは――

「……。ミサ、待っててね――」

 ファストフード店の窓からも見ることができる、ビルよりも大きく伸びる入道雲と同じ白色のワンピースを身に着けたミサヲの姿。それに燦々と輝く太陽のような彼女の笑顔にようやく逢いに行ける。去年の昂りをまだ忘れない内に早く逢いたいものだ。

 果たして今年も、地上の果てから伸びているような入道雲の麓でミサヲは、待ってくれているだろうか――



 待ちに待った八月の中旬が遂にやって来た。夏休みもいよいよ後半に差し掛かってきたことは誠に憂いことではあるが、ミサヲのことを思えば痛くも痒くもない。それどころか私は待ちくたびれて、思わず感激で一杯という溜息を吐き出して父の運転する車を降りたのである。

「ああ、うう……。やっぱりこっちの方まで来るとなるとお尻が痛いや……。お母さんの実家は一時間半くらいで着くからそんなでもないけど……」

「そうねぇ。でもお母さんからすれば実家が田舎にあるって言うのは羨ましいものよ? 生まれた時からずっと街中に住んでたし、お父さんの実家に来た時は自然が一杯で嬉しくなっちゃったわ」

「あはは。僕からすればお母さんと逆さ。大学じゃ田舎っぺって笑われてたっけ」

「それはお父さんの訛りが酷かったからよ。今は大分直ってるけど、ね」

 自宅から父の地元へ来るまでの道のりはおよそ五時間半もかかる。今回は母の実家を先に行ったのでそれほどかからなかったが移動時間を考えると狭いと言われる日本の国内も広く感じてきてしまうものだ。

「……ていうか、お父さんって昔そんなに酷い訛りをしてたの? ばあちゃんやじいちゃんと話す時は出てるみたいだけど」

「そりゃもう、生まれて十八年くらいはここに住んでたし、年寄りも多いから影響が多くてね。母国語ってやつかな? 日本語だべしどごさ行っでも通じっがらさすけねぇべ! だはは! ……なんて言ってたっけ」

「おお……。アホだ……」

「えぇ! さ、紗綾ぁ……!」

 得意気にしている父が小癪な様だったので冷たくあしらう。これはいつものやり取りであって足蹴にしている訳では決してない。それでも父は私の言葉を聞くなりメソメソとし始めてしまった。

「ほら紗綾。お父さんはすぐ真に受けるんだからそんなことを言わないの。見かけによらず脆いんだから」

「……!? ち、千鶴(ちづる)ちゃん……!?」

 愛する夫の前だと言うのに随分な物言いである。しかしそんな母の血をしっかり受け継いでいる私の言動も他人事ではないだろう。父の方を見ると母の名前を呟きながら狼狽えていた。

「……娘だけならず嫁までも僕にはこんな扱いか……。世間はなんて冷たいんだ……!」

「ふふふ。もうお父さんったら、冗談じゃないの」

 母はそう言って父をなだめる。しかし笑いながらなだめる母の姿を見ると裏の顔を隠していそうで恐怖を覚えてしまうというものだ。

「おお! なんだ紗綾ら来たが! 遠がっだがら疲っちゃべ、荷物置いで休んだらいいべ!」

 父たちのやり取りの最中に背後から聞こえて振り返る。するとそこには帽子を逆さかかぶりにし、首には白いタオルを巻いたランニングシャツ姿の祖父が歩いて笑いながらこちらへとやって来て、私たちはそれに応えるように挨拶したのだった。

「お父さんこんにちは。急に来る日にちを変えちゃってごめんなさいね。十六日までお世話になります」

「なに構わねえでば! だけんちょ、今年は早く来っがもしんねぇっで大助(だいすけ)のヤロ言ってだから、なんだ盆踊りさ行がんになぁなんてバ様と話でだげんどよ、盆踊りさ行げるみでぇだから良がっだわ」

「ごめんごめん。千鶴の実家の方も忙しいみたいで悪いなっで思っだけど、新盆前は更に忙しくなっがらって訳でさ」

「いいべぇ。ほれ、大助も同級生に顔出さなんねぇべした?」

「まあね。……また飲ん兵衛連中の洗礼を受ける羽目になるのがよ……」

「なんだおぇ、男のくせにみぐさぐねえべ! 紗綾、酒一杯飲んだだげで寝っちまう野郎は捕まえてなんねぇぞ? 図体ばっがずんなぐで、気がちんちゃくてあやまっちまぁがらなぁ」

「そ、そうなの……」

「そうよ? もう、連れて帰るだけでも大変なんだから」

「……。……もういい、疲っちゃから寝る……」

 祖父と母の手厳しい洗礼を受けて父はうなだれながら荷物を片手に家の門をくぐっていく。その哀愁で塗れた後姿を私たちは目で追って小さく笑った。

「……あ。そうだ、じいちゃん。去年も使った自転車ある? 今年も使いたいんだけど……」

「おお、蔵さ仕舞っであっつぉい。去年みでぇに直しで磨いどいだがら訳ねぇよ。使いんせ」

「ありがとう! ちょっと出かける時に便利だからまた借りるね」

 祖父に向けてそう言うと、彼は笑い皺を全て寄せてこちらに笑顔で応える。いつものことながら祖父の修理してくれた自転車があれば心強いものだ。そうすればミサヲがいる、彼女の家の墓地がある所へすぐに向かえるのだから、これほど良いものはない。

「……。よし、ちょっと汗かいてるし、軽くお風呂入ってからすぐ出発しよう。……幽霊だからとはいえ、好きな人に逢うんだから汗臭いのは嫌だな……」

 そう呟きながら服の襟を掴んで、それを仰いで臭いを嗅いでみる。特段臭うことはないが気になってしまったものだから洗い流さないと気が済まなくなってしまう。

「……ミサ」

 父の実家の門をくぐって玄関の一歩手前で足を止める。

 昼を少し過ぎた青空は、雲があるにしても快晴の限りでからりとした日差しが照りつけていた。暑くて日差しが強くなっているのだから日焼けはしたくないしあまり出歩きたくないものだ。けれど、私はそれでも構わず外に行きたいのだ。だって、ミサヲに逢えるから、去年と同じ気持ちに、好きになった人に逢える。それだけでも暑さなんて忘れて、私の中に蔓延る嬉しさは灼熱のアスファルトを裸足で立っても熱さと痛みを感じないと思ってしまうほどだ。

 ああ、見上げた先にある太陽までもが私を呼んでいるようだ。そんなに暑さが気にならないのなら早く出てきてみせろと冷やかしているみたいにギラギラと太陽の光を強めているようである。

 ならばその要望に応えてあげなくては。私のこの弾む気持ちに偽りはないということを……。



「さてと。風も出てて歩きやすいことだし、ちょっとだけ遠回りしてみようかな。……去年みたいに必ずあの場所にいる訳じゃなさそうだし」

 父の実家の前の門をくぐって、自転車に跨ったまま進む方角を考える。一刻も早くミサヲに逢いたいというのは間違いないが去年のことを思い出すと一つの場所だけを当たるというのは効率が悪いものである。

 前回の言動から推測すると、ミサヲは七割方を彼女の墓地があるこの地区の神社に居るようなのだ。しかしミサヲを初めて見かけたのはその近くにある用水路を引くために設けられた土手の上であった。それに、彼女の行く場所の話を聞くとこの地区のあちこちへ出かけているようである。

「……考えてみればこの辺りってあんまり出て歩かないからどんな風に道が繋がってるのか解らないなぁ。ミサを探すついでに出歩ってみようかな」

 道というのは崖や穴で絶たれていない限り繋がっているものだ。それを踏まえてミサヲが居る神社の方、東の方を見てから左に視線を移す。すると、そこには青々と萌える木々が見えてくる。一見すると森のようだがその近くには森の中に続く道が敷かれている。丁度今その森の中から自動車が出てきてのんびりとその道を走っていた。

「どうやら一周ぐるっと回れるみたい。ようし……」

 行き先をあの森経由で行くと決めて、神社のある東とは逆の西の方角へと身体を向け自転車のペダルを踏み込む。サンダルで漕いでいるとはいえすんなりと力が入り顔に心地いい風が当たってくる。

「うーん涼しい……! 車も少なくて煙たくないし……極楽極楽」

 ペダルを踏む度に速度は上がって耳には風を切る音で一杯になっていく。交通量が少ないこの地区の道路は車一台通るのがやっとというほどの広さである。それを思うとこの道は車が二台ほどがすれ違える位の道であり自転車で進むにはゆったりとしている。

「……しかし……左右前後見ても田んぼと畑ばっかり……。まあ、殆どは農家だろうし、当たり前といえば当り前か」

 途中に分かれ道はなく平坦な道が続く。家を出発して五分近くが経過しているだろうか。それにしても車はおろか人影もない。だが今は昼過ぎということを考えれば当り前なのかもしれない。

 そんなことを考えていると、強めのカーブに差し掛かってきて減速しながら左方向へ曲がり切るとすぐ近くに異様に長く急な坂道が見えてくるではないか。その光景に思わず声が出てしまった。

「うわ……! なんだか長い坂道が……!」

 上り坂を前にして自転車を止める。

 私はどちらかと言うと運動は苦手な方で出来るならばこういった重労働はやりたくないのだ。だからと言って引き返すのも億劫だ。得意ではないのについ驕ってやって来てしまった数分前の自分自身に文句を言いたくなってしまう。

「……。此処から先は山の中に行くのか……。……もしかしてこっちの方角って時宮(ときのみや)の街中に行けるのかな……?」

 時宮市。それは父の実家のある街の名前であり、県内で一番大きな市街地である。大きな市街地というだけあって街中は非常に賑やかで必要なものや娯楽は一通り揃っており、時たま父に連れられて出かけることもある。父と出かける時はいつも別な場所から行くのでこの道は知らないが方角的には合っているはずだ。

 時宮市は地域の幅も大きく繁華街から離れればその他の地域は一気に落ち着いた風景になる。もちろん、父の実家のある地区・太郎坂も例外ではない。

「……ていうか、ここの太郎坂って名前はこの目の前にある坂の名前から来てるのかな。綺麗に舗装されてるし石碑にもそう書いてあるし」

 坂周辺をよく見てみると遠目からでは気付かなかったけれど『太郎坂』という地名が書かれた石碑は青苔を纏いながら佇んでいた。

「それにしても急勾配だなぁ……。この自転車にギヤなんて……あるわけないか……」

 跨っている自転車をちらりと見て頭が痛くなってくる。何故なら目の前にある坂道は顔を大分上げていないと坂道の頂きが見えないほど急な坂なのだ。平坦な道のみを走る想定で作られたこの自転車で行くには些か無理がある。いや、行けると言えば行けるのだが、登り切った後の私の脚の筋肉がどうなるかは想像に難くないというものだ。

「……ええい! あれこれ考えてもしょうがないよ! 行くっきゃない!」

 自棄にも思える気持ちを声に出して自転車のペダルを踏み込む。走り出した自転車は坂へと突き進んで、後輪が坂道に乗ると視界は空へと目指している。サドルに体重をかけているものだからやがて速度は落ちてバランスも崩れていく。このままでは倒れてしまうため立ち上がり前に体重をかける。そうすると座っていた時より使う力は格段に増えてペダルが非常に重くなる。その重さに自分自身でも驚くほど野太い声が出てきてしまう。

「ふぬぬ……! なんだって……急だし、長いし……! なかなか……進まないし……! ハァハァ……」

 これは普段の運動不足が祟っているのだろうか。ハンドルを握る腕は小刻みに震え早くも息が上がっている。体重は落ちたはずなのに……いいや、その分筋肉も落ちてしまっているのかもしれない。考えてみれば、最近は少し動いただけでも疲れやすい気がする。落ちているのは体重だけではなく筋肉も、進む速度も連なっている。まったく、体重は増えずに筋肉を増やす夢のような話はないだろうか……!

「はぁ……ふぅ……ゼェゼェ……! あ、あと……少し……!」

 息も上がりきり、脳内に足りなくなった酸素を取り込みながら前を見てみると坂の頂上がもうすぐそこまで近付いていた。頂上はあと少し。あのカーブミラーまでだ。

「……! ……っ! ……ぶはぁ……! つ、ついた……はあはあ……」

 坂を登り切り近くのガードレールに手をかける。息が上がりきった胸は強く上下し、気管は息を激しく取り込んだために乾いて咽(むせ)返り咳が自然と出てくる。それどころかひゅうひゅうと音を立てどれほど身体の中で空気が行き来しているか私に教えてくれているようだった。

「……わあ……!」

 次第に呼吸も落ち着いてきて、額に浮かぶ汗が風に撫でられていることに気が付き始めた頃、ようやく私はまともな意識を持てるようになった。ふと周りを見渡すと目の前には鬱蒼とした木々が作り出したトンネルが広がり、その木々の間から光が差し込んでとても幻想的な風景を作り出していた。その中は日陰で涼しそうだが木漏れ日のお陰でどこか暖かそうな印象を抱かせてくれる。そしてそのトンネルの中からは蝉たちの声がいつもの倍くらいの大きさで私を呼んでいるようであった。

 そのトンネルから少しだけ視線を逸らすと、風景は広くなって遠くに山々が見て取れる。そしてその山々に守られているようにして時宮市の街中が広がっていた。街中に行くと住宅が密集しビルさえも軒並み建って狭く感じてしまうものだが、こうやって見てみると何もかもが小さく、その狭さも嘘のようだった。

「凄くいい眺め……。この眺めは苦労して見る価値はあるね……。……ミサも、この眺めを見て育ったのかな」

 ミサヲはともかく父もこの眺めを昔から見ていたと考えればとても羨ましいものだ。母が言っていたように、私は小さい頃から都会に住み、自然といえば自宅近くの公園の芝生であった。その芝生の何万倍という緑色がこの景色にはある。確かにこの辺りは田畑の他には何もなく現代の生活をする上では不便この上ない。だけどこんなにも胸を打たれるような景色があって自然とともにある生活も悪くはないと思ってくるものである。こうやって広く、遠くにある山が見せているあの、み空色はいつまでも眺めていたくなってしまうほど美しい。その色の涼しげな様子は手を伸ばしたら簡単に届いて、湧き水を掬った時のような冷たさに触れ合えてしまいそうだ。

「……。さて、そろそろ行こうかな。坂を登ることに必死で忘れていたけどミサを探さなきゃ」

 どこまでも広がっている自然の景色から視線を改めて目の前にある森の中へと移す。暖かそうな木漏れ日はまるでトンネルの中の照明のようで点々としながら奥へと続いている。その木漏れ日を目で追うとトンネルの奥には壁があり行き止まりとなっているようだ。

 しかしながら、ここまで道が続いていたと言うのに急に行き止まりになるなんてことがあるだろうか? と、考え込んでいた時、森の中から次第に大きくなっていく音が聞こえてくる。なんとも説明し難い、高い響きから急に転がっていくような低くくぐもった固い音。だが、それは近付くに連れて何の音か明白になっていくのだ。これは――と思った瞬間に行き止まりのはずの壁の脇から自動車が、父の実家から見えたものとは別な自動車が出てきて私の目の前を通り過ぎていく。壁に沿って横切っていったということはT字路になっているのだろう。それが判るなり私は躊躇することなく自転車のペダルを漕いでトンネルの中へと進んでいくのだった。

「遠くからじゃ判らなかったけどこんな風に分かれ道になってたんだ。今の車はさっき見た道から来たみたいだし、方角はこっちかな」

 沢山の木々が作り出したトンネルの中はとても涼しく、夏ならではの咽返るほどの熱風さえこの場所では涼しい風になる。まるでクーラーが効いているように涼やかだ。そして目の前に広がる道路は先ほどの急勾配の坂とは違いなだらかで非常に長い下り坂が続いている。その下り坂に車輪が乗り重力が赴くままに車体が進んで行くと、どんどん加速して身体一杯に涼しい空気が私を包んでいく。暑い空の下にいた身体はしっとりと汗をかいて、それが冷やされて思わず唸り声が出てくる。ああ、なんて気持ちいいのだろう!

「はああ……楽チン……! おまけに涼しくて快適だぁ……。……あ、もう出口だ――」

 こちらにやって来る風にうっとりとしているといつの間にか森の出口付近に近付いていた。その事実が明らかになってふとすれ違う木々を見てみる。するとそれらはどれもあっという間に過ぎていって、私がどれほどスピードを出しているか伺える。

「……っとと……。なんだかここに来るとついスピードを出し過ぎちゃうなぁ……気を付けないと怪我しちゃう」

 ブレーキを小分けに掛けて確実にスピードを緩める。目の前にある森の出口までは急なカーブではないものの出口の先を考えれば減速せざるを得ない。

 そうして森の出口を抜けると視界は一気に明るくなって青色と緑色が広がる。空から照りつける太陽の眩しさにまた目を細め瞳の中に入ってくる光を弱める。そして私の身体に当たる風もまた熱風に変わっていった。

「あっ……あぜ道の向こうに神社がある……。……ミサ……!」

 去年も見たあの神社を見て私の胸は一気にときめいて自然と顔が綻ぶ。暑さや体力の要ることで記憶から抜けていたが、私がこの土地へやって来た目的を見て胸が躍る。

 それから数分と経たない内に私は小さな丘に設けられた神社の麓へ到着し、鳥居の側へ自転車を止める。ここまでは去年と同じだ。

「……。よしっ! ミサ、今行くから――」

 抑えきれない気持ちを身体に滾らせて、鳥居の奥にある石造りの階段に目掛け飛びつくように地面を踏み込む。その矢先に背後から固い何かが倒れた音が聞こえてきてぎくりとする。その音の主には大体の予想がついていて頭を抱えながら振り返ると、そこにはやはり自転車が地面にひっくり返っていた。本当にもう、自転車とはいえ手のかかるものだ……。

「……よっこらしょ。これでよし」

 倒れた自転車を持ち上げ立て直す。今度こそはと、自転車のタイヤをしっかり地面に着かせしっかりとスタンドを立てる。ハンドルを揺すって倒れないか注意深く確認し、更に指差し確認までしてその確実性を見極める。今度こそ倒れたりはしないだろう。

「……よし。ここまでやれば大丈夫でしょ」

 まるで安全を確かめるために点検を何度も行う作業員を彷彿させる細かさに自分自身で感心してしまう。言い換えればしつこいこの上ないことだが今の気持ちを考えたら致し方ないことである。

 気持ちを改めて地面をしっかりと踏み込み階段へと歩を進める。神社の建つ小さな丘には大きな木がそびえ立ち近くの道路さえも影で覆っている。その影は当然神社全体を覆っているためにその奥も薄暗くひんやりとした空気に包まれている。

 端から見たら少しだけ不気味にも思えるが私にはそういう風にはならなかった。何故ならここにはミサヲが、逢いたかった好きな人が居るのだから。

「……ま、必ず居るとは限らないけれど大体はここでしょ。よいしょ」

 背の低い石造りの階段を登っていく。段数も多いわけではないので駆け足で境内に足を踏み入れる。

 目の前には涼しげな風景とともに去年と同じ光景が広がっていた。木々が風に揺られてざわめき、木々の間から漏れた風で辺りに生えている雑草は笑うように身体を揺らしていた。

「……。ミサーっ! 紗綾だよ、ミサーっ! おおーい! ……。返事がないや……」

 誰もいない中を大きな声で私の目的の人の名前を呼ぶ。ミサヲならば私の声を聴くなり飛び出してくるかと思ったが、それは甘い考えだったようだ。

「……本当にいない……。……ああ、がっかり……」

 周囲を見渡しながら本殿へと近付くがやはりミサヲの姿はない。ここならば居ると思っていたのに、現実は手厳しかったようでミサヲをここに留まらせてはくれていなかった。

 ここに居ないならば他を当たればいいと思っているのに、現実を目の当たりにした私の身体は動いてくれない。理由はミサヲが居なかったということにショックを受けているからなのだろう。ああ、私はここにミサヲが居ると強く信じ過ぎていたのかもしれない。ミサヲはあちこちへ出歩き回るほど活発な性格であるのだ、それを考えるとここばかりに居るというのも否定できるものだ。

 そうと分かっているのに溜息ばかり出てしまう。自分自身でも感じ取れるその重苦しい溜息とともに私のやる気も殺(そ)がれてしまいそうだった。

「……。まあ、落ち込んでもしょうがないよね。本当に落ち込む時は、ミサが本当に見つからない時だけにしよう……」

 もう何度目か分からない溜息をつきながら本殿の石畳の前に腰を掛けて頬杖をつく。

「ミサは後どんな所に行くんだろう。ケータイでこの辺りを調べてみよう」

 ポケットから携帯電話を取り出して地図のアプリを開く。起動したアプリが映し出す地図は現在地を示す矢印と道路を表している白い線があるだけであとは空白だった。

「うーん……。道は複雑じゃないけどこれじゃどこに何があるか分からないな……。衛星写真にしても……緑ばっかりだし……」

 これでは埒が明かない。この辺りの地形のことをもう少し父や祖父たちに聞いておくべきだった。

「こうなったら虱潰しに自転車を走らせるしかないかな。時間はたっぷりあるんだし夕方までには――ひゃっ!?」

 これからの予定を立てて、いざ行動に移そうとしたその時。突然私の両脇がうごめくようにムズムズしてきて思わず身体が仰け反る。それどころかその擽ったい動きに笑いが出てきて目元には反射的に涙が浮かぶ。一体何事だろう――

「――おりゃおりゃ! 人の縄張りに堂々とくつろぐ曲者めが! この日下部ミサヲが成敗してくれっだぞ! 女たらしめ! どうだ、参ったが!」

「ひゃひゃっ……! ちょ、ちょっ……アハハ……! そ、その声は……ミサ……アハハっ……!」

 私の背後からうごめきとともに聞き覚えのある声が聞こえてくる。この柔らかく癖になりそうな高い声は……!

「ミ、ミサっ……! ギ……ギブ、ギブアップ……! もうお腹ムリ……あひゃやっ……!」

「なはは! 正義は勝つ! 勧善懲悪はまさにここへ有りだぞや! なっはっは! ……なんて。……えへへ、さーやっ!」

 その声とともに擽りはなくなり、それに代わるようにして身体に腕が回され誰かに抱きつかれる。いや、誰というのは白々しいものだ。誰の仕業なのか確信を持っているのだから。

 ミサヲだ――

「……! ミサ! ミサ……っ!」

「へへ、さーや! 一年ぶりだない! ミサ、うんと待ちくたびっちぇウズウズしてたぞい! えへへ……さーやー……!」

 

 顔だけを背後から聞こえる方に向ける。そこには長く黒い髪に小ぶりな顔で雑誌に出演しているモデルにも負けないほどの美麗な顔。それでいて白く大きなベルトのワンピースを身に着け、とても小柄な身体を一杯に広げて喜びを表現している――大好きな、いいや……愛しき日下部ミサヲの姿があったのである……!

 

「ああー! 良い抱き心地だぁ……! さーや、今年も来てくっちぇどうもない!」

 私たちはどれほど待ち焦がれたかという思いを顔中に表して互いに身体の感触を確かめ合う。去年からの感覚ではあるが、私には彼女の身体の感触はない。あるのはミサヲから抱きしめられる感触だけだ。

 ……幽霊なのだから当然のことである。しかしながらこの心境はどう足掻いても虚しいことには変わりなかった……。

「ぷはっ! いやぁ、さーやの控えめのおっぱいも懐かしいなぁ! やっぱりこれだない……!」

「……。ちょっと、人が感傷に浸ってる時に聞き捨てならないことを言わないでよね……! まだ気にしてるんだから……!」

「感傷? なんかあっだのが?」

「……。私にはやっぱり、ミサの身体に触れないんだなって、さ……」

 私のその言葉にミサヲは先ほどの戯言も嘘のように消えて俯く。するとミサヲはすぐに顔を上げて笑顔を見せたのである。

「さーや! ミサが触れるだけでもめっけもんだべした! 確かによぉ、どっぢも触んにぃんだらば、そら気分は沈みっぱなしがも分がんねぇけんちょもよ、ミサからなら繋がってられっぺしたよ! ……だがら、そだに泣ぎそうな顔しんさんなで? 心配いんねぇぞい! ミサがううんとさーやのこと抱きしめでくれっがんない! すりすり……!」

「……ぷっ、あははっ。……うん、ありがと……ミサ……」

 私の胸の中に収まりながらミサヲは私の身体に頬ずりして心地良さそうな鳴き声を上げている。そんな小動物のような愛くるしさに私の鼓動は一気に加速して、先ほどの坂を登った時のような息が上がる感覚がしてくるのだ。鼓動もまた高鳴って、どくんどくんとその振動は身体全体、指先までにも広がって自然と震えが湧き出してくる。

 ……もどかしい、ああ、なんてもどかしいことだろう! こんなにも、ミサヲは私を求めてくれているというのにこちらからはどうすることも出来ないだなんて! もう、むしゃぶりつくほど彼女に口付けをしたい、彼女の身体が潰れてしまうほど強く抱きしめたい……また身体を通して火照りを分かち合いたい。だがそれらは悲しいが叶わないことだ。少なくとも、私からならば……。

 そんな後ろ向きな気持ちを抱いていると、ミサヲから私の名前を呼ばれ彼女の顔を見つめる。するとミサヲは頬を赤く染めふっくらとした唇を僅かに動かして何かを呟いている。微かに聞こえてくるミサヲの、照れくさそうな声に耳を傾けてみると、その言葉を聞くなり私の顔も熱く火照り始める。だけど私の脳はミサヲの欲求に素直になれと言って聞かないのだ。それだから私の身体はミサヲの言うままに動いていくのだ。

 ――ミサヲの、キスをしたいという願いを受け入れながら……。

「んん……んちゅっ……ミ、サ……」

「……む……ちゅっ……。……さーや……えへへ……!」

 軽く触れるだけの口付けではあったが、そこには確かにミサヲの感触がした。柔らかくて吸い込まれそうだ。体温を感じられないのは悲しいことだけれど、ミサヲが言ったようにどちらかが触れ合えるだけでもマシなものだ。どちらも触れられなかったのなら、私たちは身体を交じり合わせることはおろか口付けさえできないのだから。

「ああ……たまんねぇぞなぁ……! さーや……むふふ!」

「ふふ、どうしたの? さっきから笑いっぱなしだよ?」

「へへ。さーや、ほんに嬉しい時こそな、笑いっちゃ出るんだぞい? ミサが笑ってんのはそういうことなんだわ……!」

「……ふふ、そっか……そうだね……あははっ」

「えへへ……。あ、そう言えば」

 ミサヲはそう言って私の手の先を見つめている。彼女のその視線の先を追うと、ミサヲは私の携帯電話を見つめているようだった。

「さーや、それは何だ? 後ろがら見だら手鏡がど思ったけんちょ、明るぐ光っだがら違うぞない?」

「これ? これはケータイ……携帯電話だよ。今は色々機能が付いてるから出来るのは電話だけじゃないけど……」

「!? 携帯電話!? コイツが!? はああ……!」

「ん……? ミサ、ケータイ知ってるんだ?」

 以前にミサヲは三十年以上前に亡くなっていると聞いていたものだからミサヲの反応に少々驚かされる。私はてっきり今のような携帯可能な電話機は最近になってから出来たものばかりだと思っていたので尚更驚いてしまった。そんなことを考えているとミサヲから何の返事もないので彼女の方を見てみると、ミサヲは眉を吊り上げ、先ほどの愛嬌はなく私のことを睨みつけていた。

「ど、どうしたの……? そんなに怖い顔をして……」

「さーや、ミサのことを石器時代の人間かなんがと勘違いしでねえが? 悪りぃけんちょも、携帯電話はミサが生きっちぇだ時にもあったんだぞい! 田舎者だがらつっで馬鹿にしてなんねぇんだぞ?」

「べ、別にそういうつもりじゃ……! ごめんって……」

「……まあ、ミサらの頃は車さ積んであっで、軍隊の通信兵が使ってるような大げさなものだったけんちょない……なはは……」

 そう言ってミサヲは笑みを浮かべながら指で頬を掻く。今度は怒った顔付きをしていないが、一度気に障ることを言ってしまったので謝罪の言葉を彼女に向ける。それに対してミサヲは笑顔で許してくれたのだった。

「ほんで! さーやはいづ帰って来たんだ? やっぱり今日が?」

「うん、ついさっき着いたばかりなんだ。こっちに来る前にお風呂入ったりしてたから少しだけ遅くなっちゃったけど」

「……風呂……」

 ミサヲに対してこれまでの経緯を説明すると、彼女は急に黙り込んで腕を組み考え始める。小さく呻きながら考え込む彼女の様子を伺っていると、ミサヲは急に表情を変えて奇妙な笑い声を上げ始める。この時のミサヲの表情と言ったら、至極極楽を表現した表情というか、鼻の下を限界まで伸ばした間抜け面というか。とにかく綺麗な顔が台無しになっているのである。

「な、何やってんの……? 凄く、馬鹿面だよミサ……?」

「でへへ……! いやな、今さーやは風呂さ入(へ)ぇったって言ったべした? だからよ、湯気に煙り奥地に眠るさーやの……純一無雑に思えてところがどっこいの鄙陋(ひろう)に溢れがえった猥(みだ)りがましいホワイトルージュを想像したっけがなぁ……アハ、アハハ……!」

 そう言ってミサヲはまたしても気色悪い声を上げて身体を引く付かせる。ミサヲは確かにそういういやらしい方面に対しては大変な興味があるようで目を輝かせ、どこで覚えたのか知らない単語を用いて彼女の妄想を表現している所を見ると、呆れを通り越して感心すら覚えるものである。とは言え、好きな人のえげつない部分を見てしまったら若干引け目を感じるというものだ。

「……どこで覚えてくんのよそんな単語……。ある意味芸術だわ……」

「へへへ……じゅるっ……。ま、ミサのことを気色悪いっで思うなら否定しねぇよ。これがミサな訳だ、ミサからエロを抜いちまっだらなーんも残んねぇだぞ?」

「……偉そうに言うことじゃないってば……。……ミサ、せっかく可愛くて人懐っこいんだからそこを強調すれば良いと思うな。……もし、ミサが本当にそうなったら、私なんてイチコロだよ……」

 自分自身で紡ぎ出した言葉の意味をそのままミサの面影を用いて想像してみる。

 今のようなある種下品な表情や言動はなく、しとやかで優しく太陽に負けないほどの笑顔を向けてくれるのだ。それでいて彼女の酷い訛りもこの美麗な容姿と良い意味で反発してそのギャップに思わず顔がにやける。この感情を一言で表すならばそう……たまらない、これに尽きる。

 長く真っ直ぐな艶のある黒髪に細く白い触り心地の良さそうな素肌。顔には大きな瞳が二つ浮かんで風が吹く度に長い睫毛も揺れ動く。誰も気にかけない部分さえ胸打たれる物をミサヲは生まれながらにして備えているのだ。そんなミサヲと私は出会って好き合っている。その現実を噛みしめれば噛みしめるほど息が詰まる様なときめきが身体の奥底から湧き出してくる。いっそのこと手篭められてしまいたい――

「う、うう……! ミサが近くに居るのに……私ったら……! バカ、バカバカ!」

「……」

 独りミサヲのり想像を思い描いて、ミサヲと同じようなふしだらな完成図に呆れてしまう。やはり類は友、似た者同士ということなのだろうか。人のことは言えないだろうと自らを責めながらミサヲの方を見てみる。すると、ミサヲは身体をこちらに向けているが視線は明後日の方を見ており、尚且つ彼女の頬は赤々としていたのだ。しかもミサヲは黒い髪を指でくぐらせたり輪を作って触っていたりと、落ち着かない、照れているような素振りを見せていたのである。

「……? どうかした、ミサ?」

「……。さーやは、ミサがそんな風になっだらうんと喜んでくれんだなぁっで思っでよ、しょっしぃっだらねぇべ……」

 ミサヲはそう言いながら困り顔を見せてもじもじとし始める。はて、彼女は何の話をしているのだろう?

「……?」

「……。さーや、もしかすっどさーや自身の欲望を声さ出して喋っでだの判んながっだのが? まあべらべらど……そ、そんなにミサの長い髪が良いのが? この骸骨みでぇなううんと細せぇ手脚が……喋り方が……良いのかよぉ……? ……だけんちょ、てっ……て、手篭めさ、さっちぇっつったがらには……ない……?」

「へ――?」

 ミサヲの顔全部が赤色に染まり、恥ずかしそうに震える声色を聞きながら私は空白の時間に押し込められる。

 ミサヲは今まさに私が考えていたことをそっくりそのままに言っているではないか。なんということだ心を読まれてしまったとでも言うのか……!? いや、待てよ。ミサヲは私の欲望の言葉をべらべらと……と、言ったような――

 

「――ッ! あ、あ……! ち、ちが……! ミサ、これはッ……!」

 ここに来て漸く私は自分自身の過ちに気が付く。興奮のあまり自らの中の心の声をそのまま吐露してしまっていただなんて! しかもミサヲはそれを聞いてから私の方をはにかみながらチラチラと見てくるではないか……! は、恥ずかしい……! 顔から火が出るとはまさにこのこと、穴があったのなら地殻まで入り込みたいものだ……!

「ま、待って待って……! 今のはナシ……いや、本当のことだけど……忘れてっ! 恥ずかしいっ……!」

「……ぷっ、あっはっはっは! ……なはは、さーや? 今更誤解だっで言っでも遅いべ。ミサちゃん、その言葉未来永劫忘れねぇぞや? ……むふふ……ミサな、さーやのごと賢ぐでめんごい才色兼備な姉(あね)ちゃまだど思っでだけんちょな……なんだまず、スケベでうっかりっつうが、おんつぁな所もあんだっで分かっだぞい? それに……ほっとしたっつうか、さーやはやっぱりめんげぇなって思っだわけよ」

 ミサヲはそう言いながら私の頭を撫でながら何度も頷く。こうされると嬉しい反面複雑な気持ちが膨れ上がって何とも言えない気分になってくる。

「だけんちょまあ、ミサも昔っがら言わっちぇだんだわ? いまっと女らしぐしんせってない。さーや、さっきミサのエロい話をしでヘラヘラしてたべ? あれ昔がらでよ、道端さ色本が落ちてで拾っで見て「おほー! たまんねぇぞなぁ!」っつってだっけおっ母さ頭引っ叩がっちぇなぁ……。いやあまず、しばらくタンコブが引っ込まながったんだわ……」

「……。もう、何やってんだか……ふふふっ……!」

「なはは! ……まあでも……」

 ミサヲの呆れる昔話を聞いて笑い合っていると、ミサヲは深呼吸をした後落ち着いた声色で言葉を紡ぎ始めた。

「……さーやがそう望むなら、ミサも変えでいがなんねぇない。……さーやは、ミサの大事な人……恋をした人、だがんない! 好きな人に振り向いでもらいでぇがらミサ、自重するぞい!」

「……ミサ……。……でも、出来るの?」

「なんだ、信用ねぇなぁ。ま、ゼロは無理だけんちょも限りなくゼロだらば問題ねぇべ? それに今の色本はどれもこれもモザイクがモジャラモジャラしでっがらよぉ、いまいちピンと来ねえだわ?」

「……はあ……」

「昔はな、大事な所をよ黒く塗っであっだだけだがら油塗れば丸見えだっだ訳だ! 今じゃ考えらんにぃべした? そらもう、ボカシが無ぇがらアレとソレがダイレクトにブッ刺さっでだんだない……」

「ちょっ……! ミ、ミサ! それはいくらなんでもデリカシーなさすぎだよ……っ!」

 ミサヲは指でその本に書いてあることを指を使って表現しているものだから尚更生々しくて顔中に血液が集まってくる。それでもミサヲは私が恥ずかしがっている意味が解らないと言うように怪訝な表情を浮かべて首をかしげていた。

「なんだ? どスケベなくせにコイツはしょっしぃってが? ほれほれ……」

「……! もう!」

 ミサヲの言うスケベということは確かにそうなのかもしれないけど、それに付け込まれて何度も誂(からか)われると癪に障って苛つくというものだ。そういう気持ちがあって私は立ち上がりミサヲに背を向け瞼を閉じる。ミサヲが面白がって誂っているとはいえ怒鳴るのも違和感がある。

 少しばかりの憤りを深呼吸とともに落ち着かせていると、今度は前から何かがぶつかり身体を揺らす。何だろうと思って瞼を開くと、ミサヲはまた私の身体に抱きついていた。だが、今のミサヲの表情は笑みはなく、眉は下がって辛そうな表情をしていた。

「さーや……悪りがっだでば……。ミサ、さーやがまた笑っでくっちぇ調子に乗りすぎだわ……ほんに、悪りぃない……この通りだ……」

 ミサヲはそう言って私の身体から離れて深々と頭を下げる。声も弱々しく反省の色を濃いものにしていた。そんな彼女の姿を見ると怒りを覚えた気持ちもあっという間に引っ込んでいく。

「……ミサ、もう大丈夫だよ。私もついカッとなってごめんね……。大人げなかったよ、あはは……」

 ミサヲは私の言葉を聞くなり顔をあげてこちらを見つめる。その時の彼女の表情は安心して、二つの黒い眼を大きく開きながら瞬きもせずに笑顔を覗かせた。

「なはは……大人げねぇのはミサもだべ……。生きっちぇだらばミサの方が姉ちゃまだがんない、みぐさぐねぇだな……」

「……。ミサは私の姉、じゃなくてオバサマって言う年齢でしょ?」

「んな!? そ、そだにハッキリど……言わなぐでも……良いべしたよぉ……うう……」

 先ほどの仕返しにとばかりキツめの言葉をミサヲに手向ける。それを聞くなりミサヲの顔は赤くなって徐々に暗い表情に変わっていく。幽霊とはいえ年齢のギャップに苦しむものなのだろうか。だがそれはミサヲが弱々しく地面に座り込む仕草が物語ってくれているだろう。座り込むだけではなくミサヲは地面を指で落書きをし始めてしまった。

 ふとミサヲが私の方を向き視線がぶつかる。そこで私は今はなった言葉が冗談でありお下劣な言葉を言った仕返しという意味を込め舌を出すと、ミサヲは顔にある穴を全て見開いて彼女の驚きを表現していた。

「なんだなんだ人が悪いなおぇ……! この女たらし! どスケベのすっとこどっごい!」

「ふふ……ああ、私も色欲魔にそう言われたらおしまいだなぁ……」

「なにぃ! かーっ、ミサちゃんごっせやいだだぞ!」

 ミサヲはそう言いながら両腕をかざし、その先にある拳を振ってこちらに立ち向かってくる。私もそれに対して格闘の構えを取るのだった。

 しかし、私たちの間には本当にやり合うつもりは毛頭なくどちらを取っても迫力のない声を出していた。そしてミサヲは私の方にぶつかってくるなり笑い声を上げ腰に抱きつくのだ。私もまた彼女の姿を見て笑い、溜息混じりの求愛の声をミサヲにぶつける。

 するとミサヲは、私が何を言ったわけでも無いのに私に屈むように促す。私はそれに従ってミサヲからの行動を待つ。

 ミサヲがそうせがむのも、私が黙って彼女を受け入れるのも、これは口付けを欲しがっている証。それはなぜか、話し合ってもいないのに自然と解ってしまうのであった。



「ね、ミサ。ちょっと気になったことがあるんだけど」

 境内の中ではしゃぎ合って、それが落ち着き共に石の階段に座り互いに居場所を確かめ合っていた時私は口を開いた。さっきまでは興奮して忘れていたけど、ふと思い出したのだ。

「ミサ、去年より昔のことをよく思い出してるね? 前は確か昔のことはあんまり覚えてないって言ってたけど……」

「……確かに! あら、なんだべ?」

「えっ……。自分でも判らないの?」

 ミサヲは自分自身のことであるにも関わらず、目を白黒させ今のミサヲに驚いていた。

「うーん……。……判っがんねぇなぁ……? あ、でも」

「うん?」

「さーや……。さーやを……背がずんなくなっださーやを初めて見た一昨年の夏から、こう……頭が冴えるようになっだなぁ。それまでは近くの家に刺さったままの朝刊を読んでもすぐ忘れっちまっでたのに、今は確かに忘っちぇねぇ……! それに、ミサが死んちまう前の記憶もホイホイ出てくんな……? まあ、全部はまだ無理だけんちょ」

 ミサヲを膝に乗せながらそんな会話を交わす。ミサヲによれば死んでしまったら形姿は死去してしまった時の服装らしく、記憶もそこまでのものだというのだ。しかし幽霊になって時間が経つとその昔の記憶も段々と薄れていくらしいのである。

 それを考えるとミサヲが昔のことを教えてくれることに矛盾が生じるのだ。けれど、ミサヲ自身もさっぱり判らないようで首を限界まで傾けていた。

「……。うん、やっぱし全部は思い出せねぇわ。途切れ途切れで思い出すのはほんに昔会った人らとさーやのことだな。……」

「……? ミサ?」

「……。昔の、が。……おっ母……」

 ミサヲはそう言って黙り込む。母親の名前が出る所を聞くと、何かを思い出したのだろうか。

「お母さん? お母さんがどうしたの?」

「いやな、ミサのおっ母はうんと老けけてな、あの世さ来ねぇとこを見っどまだ死んでねぇんだなっで思ってない」

「えっ……! そ、そんなにお年を召してたの?」

「お年を召すっちゃ……。はは、そだに偉い人間でねぇよ。……んだな、ミサが死んまった時は確か、六十後半だったべで? これがまた、まあぁしわくちゃのババちゃまでな……」

「……酷い言い方……。でもそうすると……ひい、ふう……。もう九十歳近いんじゃない?」

 指を追って計算をしてみると百歳近い、または九十歳後半ということになるだろう。

「んだなぁ。おっとぉは見たけんちょない。はぁ、百くらい行ってたべで? わげの海藏(かいぞう)くんは……」

 ミサヲは腕を組み何度も頷く。ミサヲの父を君付けで呼ぶ所を見ると彼女の家族は陽気な人間が多かったのだろうと伺える。それはそれで羨ましいものだ。

「お父さんとは話さなかったの?」

「だっで、おっとぉのヤロふらーっど居なくなっちまうんだもの。話す暇も無くてない」

「そ、そうなんだ……」

「……だすっど、おっ母は何してんだべな。……まさか地縛霊だどか、そう言うとんでもねぇ物さなってねぇべな!? だから成仏出来んにぃで彷徨っでだりしでな……!?」

「……縁起の悪いことを言わないの。……だとするとさ、一度会ってみたいね」

「……んだない。ミサがまたあの世に戻っちまう前に、顔ぐれえみたいない……。……。……おっ母なぁ……」

 その言葉を最後に私たちの間に静寂がやって来る。境内の中ではまだ蝉の声が盛んに鳴き、それを彩るように草木も揺れてそれぞれの音色を奏でていた。木々の間から差し込む日差しは相変わらず強くて私たちの目の前にも差し込んでいた。静かな空間だからこそそれらは強調されて目に留まる。

 そんな風にぼんやりしていると目の前に蜻蛉がやって来て動かない私の脚の上に止まった。こちらから見るとその蜻蛉は私の太腿に乗せているミサヲの姿と重なり鮮明さに欠けた姿が映り込む。もし、本当にミサヲの肉体があってこうしていたのならこの蜻蛉はミサヲの脚辺りに止まっているはずだ。しかし、それは叶わぬことである。他の人間、動物から見ればここに居るのは私独り。私以外にはミサヲの姿、声も分からないのだ。それは厳しい現実であり……いや、霊が見えない方が正しいのだから現実を持ち出すのはおかしな話である。

 それでも私の心は晴れることはない。見えないもの見えないとすることが正しいと言ってしまっているようで、好きな人を否定されているようなきがして。私はその意見にはっきりと肯定することはできない。好きな人の存在を否定することに繋がるのは、誰であっても耐え難いもののはずだ。

 ああ、難しい問題だ。人を好きになれば良かったのに、既に他界した人に惹かれるなんて、と言われたら何も言えなくなる。それでも、私はミサヲが良かった。別に惹かれるのは決まった種別の相手で無くてもいいではないか。それに、こんなにも愛くるしい姿が既に無いということが悔やまれてならない。それなら私もミサヲの居た時代に、と思うことはあるけれど、それでは両親を否定することになってしまうのだ。……ああ、やはり難しい問題だ。私のそんな考えを露知らず、太腿に乗っていた蜻蛉は首を何度か傾げて飛び去っていってしまった。

「……。よっしゃ!」

 突然大きな声が聞こえて肩がびくつく。何だろうと声が聞こえたミサヲの方を見ると、ミサヲは私の方を見つめながら白い歯を見せていた。

「さーや、時間が勿体ねえべ、遊びさ行くべ!」

「……。そうだね。でもどこに行くの? 私この辺りって分からないよ?」

「訳ねえって! ミサはここが地元だぞい! 道案内なら任せっせ! なんなら時宮のナウなヤングにバカウケな所さ案内すっぞい! ……って、もう三十年前だから役に立たねえか……なはは」

「……本当にそんな死語使う人初めて見たよ……。なんか、それだけでお腹いっぱい……」

「だけんちょ、ミサな、行きでぇ所あんだよ! 行くべ!」

「そうなの? どこ?」

「へへ……さーやの家さ行んべ! まだ行ったことねえからよ! 訳ねえがい?」

「私の家……お父さんの実家ってこと? 良いけど……知ってる人の家かもしれないよ?」

「なに、構わねえで! ……それに、こだにめんごい娘を作った親の顔を見てみだくでない!」

「……それ、悪い意味で使うような……」

「なはは! 細かいことは後だ! さーや、やべよ!」

「ふふ、うん! じゃあ鳥居の近くに自転車があるから一緒に乗って行こう。それなら早く着くしさ」

「なんだ準備いいな! どれ、さーやんげさゴーゴーレッツゴーだ――」

 ミサヲはそんな風に叫びながら境内の出入り口の方に駆けて行く。そんな彼女の後ろ姿を見ていると、既に死んでしまった事実が嘘のようである。だが、それを遮るように照りつける太陽は彼女の姿を透かせて私を現実に引き戻す。

「……? さーやー!」

 でも、今はあれこれ考えても仕方ないのだろう。今はせめて愛する人と、一度しか無い出会える季節を楽しまなくては。そう心に秘めて私は名前を読んでいる方に足を進めていくのだった。

 



「……! はああ、へええ……! かああ……!」

「? どうかした?」

 神社からミサヲを乗せて自転車で父の実家まで戻ってくるなり、ミサヲは目を何度も白黒させながら父の実家を満遍なく眺めていた。

「……なんだなんだ! 大助くん家でねえの! あらあら、まあまあ!」

 ミサヲはそう言って私の姿を見つめる。この時の彼女の表情はその目元から大きな瞳が落ちてきてしまうのではないのかと思う程大きく開かれていた。

「え、お父さん知ってるの!?」

「知ってるも何も、ミサの後輩だぞい! 五つ位下だったかな? 近所だったがら良っぐ遊んでたぞい。ほうか……この辺で藤原っつったら善ちゃん家くらいしかねえわな!」

「……善ちゃんって、じいちゃん?」

 ミサヲにそう尋ねると彼女は大きく頷く。

 ミサヲが言う『善ちゃん』とは私の祖父・藤原善友(ぜんゆう)のことである。父のことを知っているのだから祖父のことを知っていて当然であるだろう。

「はああ、あの大助くんがなぁ……! こだにめんこい娘を持つようになって……! 正直羨ましいぞや……」

「そ、そう……? えへへ……」

「さぞ嫁様も綺麗なんだべなぁ。さーや、大助くんさ全くもっで似てねぇもの」

「あはは……よく言われるけど、お父さんにそれ言うとヘコむからね……。似てるとすれば私の髪の毛がパーマ掛かってるくらいかなぁ」

「……ほだな! なはは、大助くん天パーだったもんな! いやいや、あの頃の大助くんもめんごがったぞい! コロコロしててない……」

 ミサヲは心底嬉しそうに当時のことを語っていく。すると父の小さい時の話が出てきて、当時からふくよかな体型だと分かったのだ。本人は『高校に入るまではモデルみたいだった』と豪語していたが、やはり、見栄の混じった嘘はつくべきではない。

「そう言えば、ミサと家に来ると去年を思い出すなぁ。あの時は気が付いたら玄関で寝てたっけ」

「あら、ほうなの? そだことしてたら風邪引くべ?」

「えっ、ミサが連れてきてくれたんじゃ?」

 去年。ミサヲと再会し先ほど居た神社で想いを混じり合わせた後、私はいつの間にか自宅の玄関に座って近くの壁に寄りかかって眠っていた。そうしていたものだから母に怒られながら起こされたのである。それでも私は嫌な気分を抱くことはなかった。私はてっきりミサヲが最後に私の家まで送り届けてくれたものだとばかり思っていたから心の中は温かくなっていたのだ。しかしミサヲは覚えが無いようで彼女は首を左右に傾げるだけなのだった。

「あ……覚えてないんだ……。……ちょっぴりがっかりかも……」

「……。ご、ごめん……ミサ、さーやの寝顔を眺めながら浴衣を直した所までは覚えっでけど、その先は……ない。……だけんちょ、だとすたら、なんだったんだべな?」

「ううん……? さあ……」

 家の前で揃って首をかしげて考え込んでいると私の背後から声が聞こえてきて私たちはその方へ向き直る。するとそこには祖父が笑顔でこちらに歩きながらやってくる。それに対してミサヲもまた声を上げて笑顔を見せた。

「おお、紗綾帰っできたが。自転車はどうだったべ」

「うん、いつも通りバッチリだったよ! ありがとう、じいちゃん」

「だはは! なに、構わねえで! 運動したから喉乾いたべ? スイカ冷やしてあっがら食いっせ。居間さ置いてあっがんない」

 祖父はそう言ってスコップを担ぎながら私にそう言ってくれる。彼はそのまま小屋の方へと歩いて行ったのだった。

「……なはは。善ちゃんも変わっでねえな? まあ、うんとじっつぁまになっちまったけどない」

「やっぱりそうなの? 私は小さい頃から見てるから何とも思わないけどさ。……私が小さい時の写真に写ってるじいちゃんはやっぱり若いし、髪もあったけどね」

「なはは! さーや、禿頭は男の勲章だばい。善ちゃんもきっど髪がない方がひげ剃りと一緒に刈れっがら良いんだわだとか言いそうなもんだけんちょなぁ」

「あはは! それは言いそう」

 何かと茶化すことの多い祖父の性格を考えるとミサヲのモノマネに思わず笑いが出てくる。

「……なんかなミサ、昔を思い出してきで複雑な気分になってきたな……。ミサ、あの時死んちまってねがっだらばどうなってたんだべ」

 ミサヲは目を細めながら口元に小さく窪みを作って微笑む。いや、微笑むというよりは無理に笑顔を見せているように思えるのだ。

 確かに私には今のミサヲの気持ちは全く解らない。解らないからこそ、私はミサヲの側に居てあげたかった。

「……ミサ」

「……。へへ、幽霊になっちまったら涙も出ねえんだな。気持ちは泣きそうなのに、涙は出てくんねえ。……かがらしぃっだらねえべ」

 そう言ってミサヲは手で目元を拭う仕草を見せる。本当なら彼女の身体を抱きしめていたいが、そうはいかない。今の私には彼女の側に居ることしかできなかった……。

「……。ああ! 夏なのにしみったれた話はやんだな! ミサ、ジトジトしてるよっかネトネトしてる方がいいな! さーや、ミサと一緒にハローエブリバデェすっぺ!」

「……ほんっと、ミサの表現は最低最悪の表現だよね……それに、その表現……いみわかんなっ……あははっ……」

 わざと言っているにしても彼女の奇妙なセンスの喋りに笑ってしまう。私の中のミサヲは人懐こくて愛嬌があると思っていたけれど、再会した彼女はそれらに加えてひょうきんでからからとしている。下品な発言をすることが玉に瑕だけど、そんな知らなかったミサヲのことが知れてとても嬉しくなって、つく溜息も笑っているようだ。

「ふふふ……。それじゃミサ、家の中に入ろう?」

「えへへ、そんじゃお言葉に甘えて……」

 彼女にそう言いながら玄関の引き戸を開けて家の中に入る。玄関先に揃えられた靴に倣って自らのサンダルも脱いでから揃えて並べる。ミサヲも底の薄いサンダルを脱いでからこちらに背を向けてそれを揃えていく。幽霊とはいえ靴も脱げるものなのかと思ってしまう。

「いやあ、やっぱり変わってねぇない。懐かしいわ」

「まあ、前にリフォームしたけど基本的な所は変えてないみたいだよ。さ、私の泊まる部屋はこっちだよ」

「あらまあ、早速さーやの部屋さご招待がよ。ほんじはきちっどしなんねぇな……」

 玄関から家の奥に続く廊下のすぐ脇に私が寝泊まりする部屋がある。そこの部屋の扉のノブを回して部屋の中に入りながらミサヲの方を見てみると、ミサヲはそう言いながら手櫛で長い髪を何度も梳いていた。

「部屋に行くだけだってば……」

「だけんちょ好きな人の縄張りさ行くんにゃだらしなくてもしゃあねぇべしたよ? あ、口はだらしねぇがもしんねぇけどそこは勘弁してくんよな?」

「もう……。私が直してって言っても直さないでしょ?」

「なはは! 正解!」

 まったく、聞く度に呆れてくる。だが、不思議と悪い気はしないものだ。

「おおお……! 今のさーやの泊まる部屋は昔の大助くんの部屋か。父娘揃って同じ部屋ってはなかなか妙な巡り合わせだない?」

「うえ……ここお父さんの部屋だったの……? そうだったんだ……」

「……さーや、そだに嫌な顔をしっさんなで。おとっつぁまに失礼だべした?」

「そ、そうだけど……」

「ま、気持ちは解がんにぃこともねぇけどない。だけんちょよ、実のとっつぁが全裸で部屋に入って来るよかマシだべしたよ? ミサのおっとぉはそれをよくやっててな、良っぐ『ウスバカヤロ!』っつって追い出してだっけなぁ。流石に大助くんはそだことしねえべ? つうか、そだことする人でねえべし」

「……。そんなことされたらビンタどころじゃ済まないって……。しばらく口を効かなくなるよ……」

 ミサヲの話を聞いて父の姿を想像してみる。非常に想像のし易いものだったがかなり腹ただしいことであり、仮にそんなことをされたらもう父として見れなくなるであろう。

「紗綾? 帰ったの? 部屋に入っていい?」

 そんな話をしていると部屋の扉の向こうから母の声が聞こえてくる。私が彼女に返事をすると母は静かに戸を開けて顔を覗かせた。

「今帰ってきたの?」

「うん、ついさっきね。そのままじいちゃんと話してたけど」

「あら、じゃあスイカの話聞いてる? さっきね、おじいちゃんが畑から採ってきたんだって。食べてみたら凄く甘かったわよ」

「ホント!? 分かった、すぐ行くね」

「うん。居間に置いてあるから早くおいでね」

 母はそう言って笑顔を見せながら扉を閉めてこの場を後にする。

 祖父たちが栽培している野菜や果物はいつ食べても甘く、買って食べるものでは味わえない美味しさがあるものだ。それらを用意してもらって頂くのはここへ来た時の密かな楽しみでもある。祖父や母が言っていたスイカもまた同じことで母からの話を聞いて踊るような気持ちだ。

 そんな嬉々とした気持ちでミサヲを見てみると、彼女はまたしてもだらしない表情を浮かべていた。ここまで人目も憚らずだらしない表情を見ると冷めた溜息も枯れるというものだ。彼女の目尻は溶け落ちてしまいそうになっている。

「はああ……! なんつうまぁ美人なお母っちゃまだことなぁ! さーやはほんに母っちゃま似なんだわない! いいなぁ大助くんは……!」

「そ、そう……?」

 母については陽からも羨ましがられることがよくある。しかし私からすれば私と母はあまり似ていない気もするが、性格はそうでもないと思う。けれどもそう言ってもらえることには悪い気はしない。けれど、ミサヲが私の母に鼻の下を伸ばしたのだけは少しだけ面白くない。

「そんじは居間さ行ってみっぺ。ミサ、もう少し家の中を見て思い出してぇし」

「あ……うん。……ね、ミサ」

 部屋の扉に向かっていたミサヲを呼び止める。母に対して少しばかりの嫉妬を覚えてしまったものだから気になって仕方ない。目の前で他の女性にデレデレするなんて、例え相手が母親であっても我慢しかねるというものだ。

 そう言った意味を込めてミサヲを呼び止めると彼女は何度か瞬きさせてこちらに近付いてくる。膝を折りミサヲと同じ視線にしてミサヲの瞳を見つめる。何も言わずに唸るだけの私を見てミサヲは心底不思議そうな表情を浮かべていたが、ふと何かに気付いたようで目を開きながら薄ら笑顔を浮かべたのだ。そしてミサヲは私の額に口付けをしてそのまま私の額は彼女の頬に占領されていった。その時のミサヲが私の一つに束ねた三つ編みを触る様子も嬉しくて胸が躍るようだった。

「……えへへ……。さーや、さーやはうんとヤキモチ焼きなんだな? そだにさーやの母っちゃまに見とれでた所がおもしゃぐねがっだのが?」

「当り前でしょ……! もう、デレデレしちゃってさ?」

「……。なはは、ほんに……めんごいっだらねえな……んっ――」

 見つめ合い、ミサヲは私の頬を撫でるようにしながら愛おしそうに触ってくる。柔らかな彼女の指の感触に擽られながら、私の唇はミサヲの唇に塞がれ言葉を奪われた。更にミサヲは私の首に腕を回してきてその触れ合いをより強いものにしていくのだ。

「ぷは……。……ミサ……」

「……さーや。……さーや……」

 唇同士を離して見つめ合う。ミサヲも少しだけその気になってきたのだろう、彼女は私の瞳を尚も見続け私の手を取ってその指を咥える。温かみは感じないけれど、ミサヲがこのやり取りでどのくらい興奮してきているか、それはミサヲのしきりに動かす舌の動きがその答えになっているだろう。擽ったいそれは、ミサヲからのささやかな愛情の証にも思えるものだ。

「つぷ……。へへ……さーやー……」

 そう言いながらミサヲは私の手を擦る。このやり取りは少し前に見たような気がするが、これはあの時のものとは違いふざけているようなものではない。同じ仕草であっても、こんなにも受け取る気持ちは違うものなのか。

「……。ミサごめんね、引き止めちゃって。さ、行こ?」

「なに、良いでば! ほんじはやべな」

 そう言いながら立ち上がってミサヲとともに部屋を後にする。部屋を出た後もミサヲと私には先ほどの余韻がまだ残っていて、ミサヲは私の腕に彼女の腕を絡ませてきて私の身体に密着している。スイカが用意してあるということがなければ私はそのまま彼女を誘って押し倒してしまっていたことだろう。その証として、私の下腹部はじんと熱くなって火照らせたまま彼女を欲しがっていたのである。

 そんな大胆な想いを胸に秘めていると私たちは居間へと到着した。障子を開けて最初に飛び込んできたのは父・大助のだらしのない後ろ姿であった。

「なんだの大助くん、随分と肥えちまって! なんつうまあ、貫禄十分な形姿になっちまっだことなぁ! ……だけんちょ顔は昔の面影があんない」

 ミサヲはふて寝している父の後ろ姿を越して父の顔を覗き込んでいる。それに対してミサヲは声を上げ、父は知らずにのんきな欠伸をするだけだった。

「……。なんか変な感じがする……。私から見ればミサがお父さんの顔見てるのに気付いてない……」

「そらほうだべ。今のミサのことはさーやにしか分かんねぇだかんない」

 誰に聞かれている訳でもないのに私たちは小声でやり取りをする。するとそれに気が付いたのか父は首だけを眠たそうな表情とともにこちらに向けていた。

「……ん? ああ、紗綾か。そこにじいちゃんが採ってきたスイカがあるから食べな?」

 父はそう言って側にある机を指差す。その机の上には三角に切り分けられたスイカが皿の上に並べられ虫よけの籠の中に入れられて置かれていた。

「ああ、これね。うん食べるよ、ありがと」

 机の前に私たちは揃って座り込む。虫よけの籠の一番上にある取っ手の根本にボタンがあり、それを押すと籠が一気に折りたたまれ雨傘のような形へと姿を変える。久しぶりに見たそれはどことなく面白くなって何度か開閉しているとミサヲが私の名前を呼んでこちらを振り向かせる。振り返った先にあったミサヲの顔は口を閉ざしたまま笑っていたのである。

「なはは、これは懐かしいない! 久しぶりに見たわ」

「私もだよ。小さい時からあるから見慣れてるけど……たまに触ると面白いよね、これ」

「だけんちょスイカも食わなんねえべ? 食ったらいいべ」

 ミサヲはそんな風に急かして私に指し示す。別にそこまでして急ぐようなものではないだろうにと思いながらミサヲの方を見てみると、ミサヲは身体をこちらに向けたまま視線はスイカの方へ熱く突き刺すような勢いで向いていた。

 ああ、そうか。ミサヲは食べることが好きだったはずだ。

「……。それじゃ、いただきまーす!」

「……」

 切り分けられたスイカを一つ手に取って実の先っぽからかぶりつく。かじった分だけのスイカが口の中に入り込んでその中を泳ぐように舌を取り巻いて味が伝わってくる。水気が多めで実がほろほろと崩れていくところも爽やかで、氷やアイスを凌ぐような涼しさも感じるというものだ。それでいて味も申し分ない。口に入れた分のスイカの実だけを飲み込み溜まった種を舌の上に乗せて吐き出そうとした時、視界の端っこに石のように固まった何かが映り込んでいた。ミサヲは、座り込んだ時よりも私の近くに移動してきていたのだった。

「……。いいなぁ……」

 ミサヲはつまらなさそうな表情のまま私の方から顔を背ける。こればかりはしょうがないことだけど、残念と同情するよりも誂いたくなってきてしまう。先ほどの発言の仕返しとばかりに私の口は軽やかに動いていく。

「んー! お父さん、今年も美味しいね! 毎年こうやって食べられるから贅沢だよねぇ」

「……!」

「ははは! そうだね、じいちゃんらが作るやつは近所でも好評だしね。これには息子も太鼓判だよ」

 父はそう言いながら起き上がって私の様子を見てから皿の上に乗ったスイカを一つ摘んで口に運ぶ。それにまた父も嬉しそうな声をあげその味を堪能している。

 私たちのそんな様子を見たからなのか、横目でミサヲの様子を伺うと、彼女の顔はこちらを向いて私に下唇の裏を見せながら震えていた。心底悔しいと、そのミサヲの様子から空気を伝わってくるようである。

「……。この性悪女めが……!」

「……ふふん。おあいこだよ」

 またしても小声でそんなやり取りを交わす。ミサヲは怒鳴る、とまではいかなかったけれど彼女の声色は憤りに震えていた。そんなミサヲの様子を尻目に口の中に溜まっていたスイカの種を吐き出して座りなおすと、ミサヲは身体の向きを変えて私に背を向けてしまった。

「あ……。ミ、ミサ……」

「……でもなぁ、親父も海藏さんと仲良かったからこうしてあの味を食べられてるんだよね。あの時のまま、何もかも失っていたらこうはならなかったよなぁ……」

「……おっとぉ……?」

 父が感慨深そうに頷く。私はミサヲの機嫌を治そうとした時に、ミサヲは背を向けた後ろ姿を僅かに揺らして父の言葉の先を追う。

「……大助くん、何もかも失ってっちゃ、なんだべ……?」

 ミサヲは食いかかり気味に机に手をついて父に問いかける。しかしミサヲは何も喋らない父を見て眉を歪める。彼女たちのそんなやり取りを目の当たりにして、私はミサヲの代弁を取るべく父に話しかけるのだった。

「お父さん、その……海藏さんって?」

「ん? ああ、家の近所の久野屋さんの所の日下部海藏さんって人のことだよ。紗綾がまだ三歳かそのくらいに亡くなっちゃった人なんだけどね」

「……。久野屋はミサんげの屋号だべ。さーや、続きを聞いてくんよ」

 ミサヲは小さく私に話を続けるように促しそれに従い私は父にまた話しかける。その際ミサヲは私に対して両手を合わして彼女自身の意思を私に伝えていた。

「その海藏さんって人とじいちゃんは仲良かったんだ」

「うん。そりゃもう大親友っていうくらいだよ。家の親父の方が年下だったんだけどね、海藏さんの方が可愛がってほぼ毎日家に来てたんだよ。だから僕も海藏さんのことはよく覚えてるしね。親父はその頃整備工で車を何台も捌くだけの生活だったみたいだから他のことも知りたいって海藏さんにお願いしたんだよ。そこで海藏さんから農業のいろはを教わったんだと思うよ。今でも親父は海藏さんの作物を育てる上での言いつけを守りながら退職後はああやって農業に勤しんでるだね」

「善ちゃん……」

「……そうそう! 海藏さんと言って思い出すのは……――やっぱりミサヲちゃんかなぁ」

「……! ミサ……!?」

 父の口からミサヲの名前が上がり思わず膝立ちする。それに対して父は目を丸くして私の名前を呼ぶ。無理もない。私はミサヲのことを知らないと思っているのだ。私は今はなった言葉を取り消すようにごまかしながら静かに正座をし直す。そこから先はこれと言った詮索はなかったが、ふと横目で見たミサヲの表情は固まっていて、真剣な……どこか緊張した眼差しで父を見つめていた。

「ミサヲちゃんってのは海藏さんの一人娘で僕の五個くらい上のお姉さんだったんだよ。それに久野屋さんは近所にあったからよく一緒に家に来てたっけね。これがまたミサヲちゃんは美人でね、それに身体もちっちゃかったからかなりモテてたんだよ。本当にねぇ、その時のミサヲちゃんを見せてあげたいよ。あの綺麗さは千鶴ちゃん以上だったなぁ……」

「……なははっ……! だ、大助くんも上手くなったんだわぁ……しょうしぃべよぉ……」

「……。おかあさーん?」

「!? ご、ごほんごほん!」

 父も父とて鼻の下を伸ばして昔の様子を思い出している。その時の彼の表情は娘でも呆れるほどの表情で、それを正すために特に用もないが母のことを呼ぶ。父はわざとらしい咳込みをしてミサヲは両頬に手のひらを当てて小さく頭を振っていた。

「……ふう。まあでも、見た目とは裏腹に話し方が面白い人でね、笑い方も凄く変わってて一緒に話してても飽きなかったもんだよ。……。……本当に、あんな最期だったもんだから尚更惜しい人だよ……」

「……。あんな、最期……?」

 普段の会話ならばあまり聞かない最期という言葉に反応して思わず前のめりになる。

 恐らく父は何かを知っているのだ。私はまだまだミサヲのことを知らない部分が沢山ある。今年の夏で知ったミサヲの喋り方や嗜好などもまた然りで、ましてやミサヲの生涯を知っている人間など限られているだろう。あんな最期、というからには恐らく冷や汗をかいてしまうほどの物なのかもしれない。私は覚悟を決めて膝の上に乗せた手を強く握りしめる。するとその手は何かに覆いかぶされ私の注意はそれに向く。そこにはミサヲの手が乗せられ、彼女は私のすぐ近くに、身体を密着させて父の話を聞いていた。ミサヲの表情は真実を知りたい、というような面持ちで呼吸すらも躊躇う様子で佇んでいた。

「うん……。あんまり人に話すことではないんだろうけど……だいぶ昔のことだし娘だから教えてもいいかな。……親父から聞いた話だと――ミサヲちゃんは焼死体で発見されたんだそうだよ」

「……。しょうし、たい……?」

「そう……あれは、丁度今頃……いや、盆踊りの日だったね。僕がまだ小学生だった頃で友だちと露店めぐりしてたから間違いないよ。会場が賑やかでこれから盛り上がってくる、って言う時に聞こえてきたんだよ、火事だって叫び声が。それから間もなくして消防団のサイレンの音と鐘のなる音があちこちから聞こえてきてね、辺りはかなり騒然としていたよ。そして僕は高台に登ってどこが火事なのか見たら、久野屋さんの方がある空が赤々として煙が上がっていたんだ……。親父もその時消防団員でね、血眼に走っていったっけね。海藏さんの所だから尚更急いでたと思うよ」

 あまりにも突飛な発言に、私の脳は理解をすることが追いつかずつい視線をあちこちに零して明らかに動揺している気持ちを落ち着かせる。その時にふと見えたミサヲは俯いて瞬きすらもしていなかった。

「幸いなことに海藏さんと海藏さんの奥さん……ヒサノさんは盆踊りの会場に運営側として来ていたから難を逃れられたんだ。……でもね、ヒサノさんは何かに気付いて会場の中が静まり返るほど大きな声で叫んだんだ――『ミサヲが居ない!』……ってね。ミサヲちゃんは盆踊りにも来てたし海藏さんたちの側に居たから尚更心配になったんだと思うよ。その時にはもう久野屋さんから火の手が上がってたっていうのは分かっていたからね。……ヒサノさんはきっと居たはずの娘が急に居なくなってさぞ肝を冷やしただろうね。……だけど、結末はあまりにも酷(むご)くて、ミサヲちゃんが見つけられないまま火は消されて……ミサヲちゃんは遺体となって発見された……。あの事件は、どの人に聞いても悪夢だって、口を揃えるはずだよ」

「……。……。……そんな……」

「……紗綾。お願いだからこのことは親父には話さないでね。僕も親父につい聞いちゃったことがあってさ、その時はえらく怒鳴られたよ。……親父も職人気質だから、孫娘だからって容赦はしないだろうから……」

「じいちゃんに……?」

「うん。それだけ酷かったってことだよ。あんなにバカなことしてた親父でさえしばらくの間ずっと難しい顔をしてたから、よっぽどのことだったんだよ……」

 父はそう言いながら食べ終えたスイカの皮を皿に乗せ腕を組み瞼を閉じる。毎日見る父の細い目の窪みも、隠れて見えなくなってしまうほど深く閉ざされていた。いつもは朗らかでニコニコしている父だけれど、この時ばかりは辛そうな表情を浮かべて、その時を体験していない私に到底感じることの出来ない負の痛みを噛み締めているのだと父の仕草から感じ取れるようだった。

 

 すると、その時――

 

「……っ! あっ……!?」

 突然呻き声を上げてミサヲは立ち上がり、私は思わず肩を揺らす。そしてミサヲは凄まじいスピードで、障子を文字通り突き破ってこの場から走り去ってしまったのだった。

「? 紗綾? どうかした?」

「あ……う、ううん。……ちょっと部屋の片付けをしてくるね」

 父にそう言ってこの場を後にする。逸る気持ちを抑えながら静かに障子を確実に閉めると、私の脚はつま先で廊下の面を蹴り飛ばすように踏みつけながらミサヲの後を追った。しかし、少し時間が経ってからミサヲを追うのだ、もしかしたら彼女は遠くに行ってしまったのかもしれない。駆け足で玄関に辿り着いて、私はやはりと生唾を飲み込む。なぜならそこにはミサヲのサンダルが無かったからである。

「……! ミサ、どこに行っちゃったんだろ……!? 近くに居るかな……。ミ、ミサーッ――」

 玄関の戸を開け周囲を見渡すがミサヲの姿がない。やはり彼女は父の話を聞いて当時のことを思い出してしまったのだろう。急がなくてはと、私は左右に見えた景色だけで判断し近くにミサヲが居ないと認識して、腹の奥から声を出そうとした、その時である。

「――ここさ居っつぉい」

 突如聞こえてきた声にびくついて声のした方に頭を振る。すると、私の丁度左側にミサヲは体育座りで私の顔を見上げていた。

「び、びっくりした……! でも良かった、遠くに行ってなくて……」

「……」

「……。ミ、ミサ……」

 今の彼女に声をかけることがし辛い、こんな気持ちを抱くなんて思いもしなかった。

 小さく、綺麗な曲線を描いて佇むミサヲの横顔の輪郭は真顔のせいもあって非常に冷たく綺麗と思うその表情でさえ恐怖を抱いてしまう。いつもならミサヲの側に駆け寄って、同じ体勢を取って話を聞こうと思うのに、今だけは彼女が漂わせる冷たい雰囲気が私を後退りさせるのだ。

 そんないつもの眩しい笑顔を見せる彼女のもう一つの表情に慄いていると、ミサヲは急に立ち上がって私の身体にぶつかってくる。それは力が全くと言って良いほど入っておらず、乾いたタオルを投げ付けられた時のように柔らかく私の身体へぶつかって来たのだった。

「……ミサ……」

「……。ほんに、悪ぃない……。急に飛び出しちまって……。……ミサ、さっきの大助くんの話で……思い出しちまっただなぁ……」

「――! ご、ごめんっ! 私が軽率なことを聞いたばっかりに……!」

「……さーやが謝ることでねぇ。……誰も、悪ぃごとなんて、ねぇんだぞい……」

 ミサヲは俯いたまま自らの気持ちを吐露していく。その様子をぼんやりと見ていると、ミサヲは私の服を引っ張って一緒に来るように促していた。

「ミサ……?」

「さーや……。悪ぃけんちょ、神社まで乗っけてってくんよ。……さーやにも、話しでおぎでぇことが、あっがんない」

 それを最後にミサヲは喋らなくなってしまう。何も言い出さない彼女の姿を見て私はその気持ちを汲んで自転車に跨り、ミサヲを乗せて神社へと向けて走り出す。ミサヲは神社に向かって欲しいとだけ言って私をそこへ促すだけで、その他はやはり何も喋ってくれなかった。



「ミサ……」

 神社に到着してその薄暗い境内の中に私たちはやって来た。何か目的があるのだろうとミサヲの背中を見つめ続けるが、彼女は何を言うことなく境内の中を見つめるだけであった。

 無理もない。先ほどの話で彼女は当時のことを――忘れかけたミサヲが命を落としたきっかけの経緯が語られ思い出してしまったのだから……。

「……。さーや、一つ言って良いが?」

「うん……? なに?」

 ミサヲは振り向いてこちらに視線を合わせる。その時の彼女の表情には笑顔で溢れていた。

「――愛してっぞい!」

「……。……。……へっ!?」

「なんだ、物分り悪ぃな! んだから、アイラヴユーだぞ! ……『海に行こうよ あなたは目を輝かせながらぁ 私の手を引いたわ ちょっと待って 車のラジオは雨って言ったじゃないぃ……んんん~……。そ・し・てっ、土砂降りの中”ラヴ・ユー”ってささやくわぁ 聞こえないわ、ワザとなんでしょ キザよね あなたぁ……ルルッル~』……ってか!」

 何やら聞き覚えのある歌をミサヲは口ずさむ。この歌は確か歌番組でもよく紹介される数十年前のヒット曲『シーサイド・トレイン』のはずだ。脈絡もなく即興で歌ったにしてはとても上手である。何故この歌を? と思ったけれど、考えてみればミサヲが生きていた頃の曲のはずだ。知っていて当然であるだろう。

 だけどそんなことより私はミサヲが放った言葉の方が気になる。――ミサヲは今、愛していると、言っただろうか……!?

「ちょ、ちょっ……! ちょっ、ちょっと、待って……! そ、そんなことを急に……言わないでったら……!」

「なんでだで! ……本当のことだぞや? ミサ、さーやと逢ってから覚えることも思い出すことも前よっかううんと出来るようになったっつっだべしたよ? だがら、この気持ちは本当のごど……。……。……もしかすっど、さーやは違うのが……?」

「なっ……!? そ、そんな訳ないでしょ!? 私だって、ミサのこと……あ、あ……あっ――愛してるんだからっ!」

 顔から火が出そうだった。いつもミサヲに対して想っていることではあるが、こうも本人の目の前で、想っている相手から尋ねられると今にも頭から湯気が出てきてどうにかなってしまいそうだ。

 そんな気持ちを抱いてミサヲの方を見てみると、彼女は手を胸に当てて顔を赤らめながら目を細め笑みを浮かべていたのである。

「……ほうか。良がっだ……! ミサ、こだ所でフラれだらばなじょすっぺと思っだわ……。……だけんちょ、さーやもミサもそう想うからには……覚悟を決めなんねぇない」

「……覚悟……?」

「んだ。……みぐさぐねぇけんちょも、ミサは覚悟を決めでだはずだったはずなのによ……思わず逃げっちまっだなぁ……。うんと情けねぇべ……」

「ま、待って……覚悟を決めるって、何の話……?」

 雲を掴むような話に混乱して、ミサヲの話に割入って説明を求める。それに対してミサヲは静かに頷いて言葉を紡ぎ始める。

「……。さーや。さーやは、ミサの死んちまっだ時の話……聞いてくれっが?」

「……!」

「無理にとは言わねぇ。けんちょな、さーやはミサとずっと関わり合っていくわけだ。そうすっがらにはミサのことを知ってで欲しいんだわ。……それが、どんなにもごいことがあっだどしでも、ない」

「……」

 抑え気味の大きさではあったが急に声色を低くして重苦しい雰囲気を作り出す。

 父の言っていたミサヲに降り掛かった彼女の死の真実。きっとミサヲは先ほどの話で思い出したのだ。それを私に語ってくれる……私を愛してくれているからこそ。ミサヲの瞬きをせずじっと見つめる様子に、私は息を止めてそれを吐き出す。

 確かに私はミサヲのことをもっと知りたい。それに伴って彼女の昔のことも知らなくてはならないのだ。それを考えたら頬を伝う冷や汗も微温(ぬる)くなるというものだ。

 彼女の真実を教えてほしい。そう想いを込めてミサヲに向けて首を縦に振ると、ミサヲは静かに、彼女しか知らない真実を紡いでいくのだった。

*ミサヲの記憶side

 八月中旬。まだ夏真っ盛りで、遊びたい盛りのミサにとっては夏休みも後半に入って少しだけ寂しい気持ちを抱いていた頃だった。

 その日もその日とてミサは朝早くに起きて、両親も起きてくる直前に一番乗りで家の中庭で大きく深呼吸をして一日の始まりを感じるために真新しい空気を身体中に染み込ませる。そして息を吐き出すとともに何の意味を持たない言葉をつい大きな声で出すものだからよく両親からはやかましいと何度も叱られていた。それでもミサは『暗い顔をして起きるより元気な方が良いだろう』と言い負かして呆れさせていた。それでもミサの両親は嫌な顔を見せることなく、それどころか笑ってそれを受け入れてくれていた。

 その後ミサは親父と一緒に畑へと出かけて共に朝食の分の野菜を取りに行くのだ。ミサの家はこの辺りでは大きな農家で、作るだけではなく自宅で『久野屋』という屋号を掲げた八百屋として、自家製の加工品を販売し営んで日々の生きる糧として暮らしていたのである。

 毎日色んな人が来ては他愛のない話で盛り上がり、それをきっかけに今日も美味しい野菜を頼むと、農家が多いにも関わらず皆足繁く通ってくれていた。楽しいことばかりではなかったけれど、そんな自然の中にある暮らしが、不便だけど目の前に聳える人僔山(あまごいやま)の麓で暮らす生活が大好きだった。

 ――今思えば、その頃が一番幸せなものだったのかもしれない。今は紗綾が居てくれるから、その時の気持ちも通り越してしまうけれど、あの頃に抱いた気持ちは確かなものだった。

 八月十五日。その日は太郎坂村民が心待ちにしていた盆踊りの日だった。その日は朝早くから、いやそのずっと前の日から盆踊りの日のために忙しく準備をしていたのだ。それというのも年に一度しか出来ないのだから、この日は村に栖む神様も一緒に騒げるくらいに盛大に且つ派手にやろうと言うことである。

 その祭りは村民の殆どが参加し、運営する側の人間は抽選で決めなくてはならないほどの盛況ぶりだった。その年は丁度ミサの両親が選ばれて何時になく気合を入れていた。ミサも肉親ということもあって出来る限り参加をさせてもらっていたのである。櫓の制作、祭り太鼓の運搬から呼び込み用のポスター制作まで多岐に渡り、毎日くたびれるほど動いて家に付く頃にはへとへとで、横になったらすぐいびきを掻いていたと母は言っていた。困った子だよと散々言われたが咎められることもなく笑って許してくれた。その甲斐あって祭りは無事に始められることが出来なのだから上出来であると言って良かっただろう。

 ――始まりは見届けることが出来た。けれど、終わりは……ミサには遂に知ることはなかった。

 遂に始まった盆踊りにミサも出かけ、日々の疲れが滲む目を擦りながら盆踊り会場にミサは到着し知り合いと楽しく話して笑い合った。両親はと言うと、運営側の人間として設けられたテントの中で酒や麦茶を片手にその祭りの様子を眺めていた。彼らには今までの苦労が清算され心の奥底から喜んでいる、そんな風に思える笑顔を覗かせていた。

 そんな両親の笑顔にこちらも嬉しくなっていると、ミサは母たちに呼ばれてその運営側の席に招かれて彼らの歓迎を受けた。出し物の食べ物や飲み物まで頂いて、ミサは尚嬉しくなったのを良く覚えている。一方の祭りの様子も賑やかで、今までやって来て良かったと心底感じて、勧められた麦茶の味といったら格別なものだった。

 しかし、ミサの身体は正直で座っていると段々睡魔がミサを誘ってきて首は振り子のように何度も傾いていたのである。それを見かねた親父は寝ていろといい私の頭を撫でたのである。寝ていろと言われても座ったままでは些か心地が悪くてすぐにでも横になりたかったのだ。そういった気持ちもあって、ミサは両親に一旦家に戻ると言ってその場を後にする。歩きながら親父はしっかり歩いていけよと笑って、ミサも手を振って祭りの会場を後にしたのである。

 その頃のこの集落の民家は皆不用心で出かける時も家の鍵など掛けることはなかった。都会からすればあり得ないことなのかもしれないが、不思議と盗みなどの問題を起こしたことはなかった。ミサは開けっ放しの戸を開けて家の中に入り、野菜を陳列しておくための棚の脇を通り過ぎて自室へと入り、布団を出してそれに目掛けて飛び込む。干したばかりの布団は太陽の匂いを沢山に含んでそれに顔を埋めるとなんとも言えない幸せな匂いがした。

「いやあまず、疲っちゃなぁ……ううん……」

 疲れて横になったミサの頭の中は妙な渦を巻いて、まるで地面が磁石でそれに吸い付けられているようだった。身体を動かすことなくぼんやりと布団の上で過ごしていた。そこからミサが夢の中へ落ちていくのもそんなに時間を要することはなかったのである。

 今日も暑い一日だった。相変わらず暑くなる日々を思うと、昔に騒いでいた地球寒冷化というのが嘘のようである。こんなにも暑くて日が燦々としているというのに可笑しなことを言う人間もいるものだ。

 ああ、こんな暑い夏の日には冷たいアイスクリームが食べたい。そうめんが食べたい。今日見る夢は一体どんなご馳走が出てくるのだろう。ミサの見る夢はそういうことばかり。アイスやそうめんもいいけれど、やっぱり親父と母の作るスイカの味は格別だった。甘くて水分を沢山に含んだそれは表現をするには言葉を選ぶことが難しく、下手なことを言うまいと思うほどだ。

 ほら、夢の中にも遂に出てきた。ミサの大好きなスイカ。やはりこれは塩を掛けて食べるに尽きるものだ。その前に、採れたばかりのスイカから香る青臭くもみずみずしい香りが堪らなく好きで、ミサはいつものようにそれの匂いをかぐ。

 ――その時のスイカは、とても焦げ臭い臭がした。

「……? なんだべ、んな可笑しなことあっか――」

 違和感を覚え、寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こすと――ミサの目の前は沢山の炎がミサを取り巻き、部屋の中は赤々と燃え盛っていたのである……!

「――!? な、なして燃えてんだ!? 一体何が……!? お、おっとぉ! おっ母ぁッ!? 何が起きてんだ、おしえて――ギャッ!?」

 いつの日だったか、建物の中で火が燃え広がると酸素は急激になくなり、それらの殆どは温かい空気の集まる上へ行くのだと教えられた。安全に尚且つはっきりとした意識のまま身動きを取るためには新鮮な酸素をかき集めるには這いつくばって冷たい空気を集めるしかない。そう教えられていたミサはその教え通りに伏せて慎重に部屋の出入り口へと進んでいく。……きっと、そんな遅く時間の掛かる教えを信じすぎていたのだろう。助かるかも知れないと思ったその行動をあざ笑うように、燃え切れ落ちてきた梁や屋根の砕けた欠片たちに、ミサの身体は下敷きになってしまったのである……!

 ミサの体重の何倍もあるそれらはミサの身体を封じ込め、落ちてきた高さが相まってミサの腰から下は言うことを効かなくなってしまった。そして、燃え盛る梁は炎を刃に見立てて肉体を切り裂くように少しずつミサの身体をも侵食していくのだ――熱い。ただただ、熱かった。

「――ううううッ……!? あ、熱い……熱いッ……! 身体が、動がねぇ……ッ!? だ、だめだ……こだとこに居たんじは、ミサは――!」

 目の前に迫る炎を見て、脳裏に恐ろしい言葉が襲いかかる。――焼け死ぬ、と……。

「いっ、嫌だ……ミサ、まだ死んちまいたくねぇぞやぁっ……! お……お、おっとぉっ! おっ母ァッ! 誰も居ねえのがァッ!? 助けてけろやぁっ……!」

 だが、幾ら叫んでも誰も助けに来てくれない。それどころか、来るのは炎だけで、ミサに寄り添うように炎はゆっくりと、ミサの腕に巻き付いてくるのだった……!

「あああああああああああッ――!? な、なんねえ! やめてくんよ! ミサ……ミサはッ――!」

 そう叫ぶと同時にミサの頭の中は激しく歪む。熱さが徐々に体力を奪い、鼻を通るのはどれも冷たさを忘れた鋭い熱気だけ。空気が薄くなって段々と強い眠気に襲われる。目の前に浮かぶ景色も朧気だ。だけど、鼻だけはしっかりと効いているようで、その時の臭いを、ミサはまだ思い出すことが出来るのだ――

 ――まるで古くなったゴムを燃やしたかのよう。まるで、生ゴミの入ったゴミ袋をそのままいくつもまとめて燃やしてしまったかのよう……。生きた血肉を燃やすと、こんなにも臭いのか――……。

「――――……ッ! お……おっとぉぉっ!? おっ母ァァァッ――……」

 そして……ミサが次に目が覚めた時にはもう、ミサの住んでいた家は更地と化して、その更地の真中にミサの身体があった。……いいや、あれはミサの身体だったもの、と言った方が正しいのかもしれない……。

 ――あれは丁度今の季節。昭和五九年、八月十五日。覚えている最期の記憶の日で、ミサの命日である。



「……。つう訳だ。……さっき大助くんの話で全部思い出しちまっだ。……ここまで、鮮明に憶えでっどは、ミサも……たまげっちまぁな……」

 ミサヲはそう言って一息つき目を伏せる。

 私は……彼女の体験を聞いて、恐怖で震えていた。それは自分自身の身体を抱きしめているからなおさらで、実体験だからこその生々しさと迫りくる死ぬという恐怖に現実味があるというものだ。

 だから私は震えている。愛する人の死んでいった記憶を聞いて、想像以上の痛みの強さに、覚悟を決めたという私の生半可な決意は、食道を大いに圧迫して力でねじ伏せてくるのだった――

「……っ! さ、さーやっ……!」

「――げっ、うぷ……ウゲッ、ゲエッ……! ウゲェッ……!」

 びしゃびしゃと、汚い音を立てながら私の口から私の胃の中をひっくり返したようにその中身が次々と押し寄せてくる。誰かに胃袋を殴られているかのように胃は跳ね上がって、我慢ができなくなって吐き出されたそれは私の目の前に散らかされていた。そんな様子を気にも留めずにミサヲはその散らかされたものが広がる地面を踏み登って私の身体に寄り添ってきたのだった。

「さーや!? さすけねぇがよ!? ほれ、しっかり……!」

「……っ……! ゲホッ……っぷ……。だ、大丈夫だよ……なんとか……」

 私の両肩はミサヲに正面から抱えられ彼女に背中を擦られて支えられる。胃の中の何もかもを吐き出してしまった私の頭の中はぼんやりとして目眩がしてくるのだ。そんな覚束ない意識の中でもミサヲは顔中を強張らせて私の名前を何度も呼んでくれていた。

「そだ格好してさすけねぇごとあっか! ……ほら、こっちゃ来んせ!」

 ミサヲはそう行って私の背中に彼女の両腕を回して私の身体を静かに引きずる。だが、ミサヲからすれば私の身体は思ったよりも重たいのだろう。ミサヲは力を入れる度に野太い声を上げていたのである。私は、身体中が麻痺して言うことが効かない手脚を無理矢理に動かしてミサヲの行いに手助けする。そうすると私の身体は僅かにではあったが前へと進んでいき、ミサヲに導かれるまま私の身体は本殿前に降ろされた。

 だが、身体が地面に預けられると急に意識が遠のいて、目の前から光が消え去っていくのだ。今の私に見えている景色は一面、全くの暗闇だけ。だけど、その中で唯一聞こえてくるものと言えば、今にも泣きそうなほど掠れた声を響かせるミサヲの声だけだった……。



「――……や……。……ん、てんよや……! ……ーや……!」

 ぱりぱりっと、何かが裂けるような感覚がして、脳内に微かな光が差し込んで意識という具体的なものが私を眠気から呼び起こす。まるで寝て起きたばかりの時のようで頭の中ははっきりと身の回りのことを掴むことは出来ないけれど、僅かに聞こえてくる音に身体中全てが反応して、目覚めたばかりの意識がより鮮明になっていく。この声は、ミサヲのものだろうか。

「……はぁ夕方だべ……! 息はしてるみてぇだが……このままぽっくり逝っちまうんでねぇべか!? なんねぇぞ! 幽霊のミサでさえなんねぇっで言うんだぞ!」

「……。……ミサ……」

「ミサの二の舞いは絶対にさせねぇぞ! いくのは気持ち良がっだだけにしてくんよやぁっ……!」

 その言葉をきっかけに私の瞼は開いて目の前の景色が一気に広がる。幸い昼間の燦々とした眩しさは和らぎ視界にはミサヲの顔が大きく映っていた。それも、ミサヲは涙を見せていないにしてもわんわんと声を上げて両手で私の顔を包み込んでいた。その表情をぼんやりと見ていると私まで感化されて目頭が熱くなってくる。

 ――と言えば綺麗に物事も収まるのだろう。残念ながら私の感動という感情はミサヲの余計な一言に掻き消されてしまった。まったく、こうも口が減らないところを見るとまた頭痛がしてくるというものだ……。

「……。あのね、ミサ? どうしていっつも一言多いのかなぁ……。うるっと来た私が馬鹿みたいだよ……」

「うっつぁしいなぁ! 一言余計でマヌケっつったらばミサちゃんの様式美だべしたよぉ……! さめざめ……! ……。……さーや?」

 今の今まで大泣きした素振りが嘘のようにピタリと止んでミサヲは顔をこちらに向けて驚いた表情を見せる。こんなふとした瞬間の表情も可愛らしいというのに、ミサヲは勿体無い限りだ。

「さーや! 良かっだ、目ぇ覚めて……! ……って、なんだのその顔はよ……?」

「……私にまだ死ぬなって言ってくれたのは嬉しいけど、いくのは……何だって?」

「――! ん、んんーっ! ああ、今日もいい天気だなぁ……あの雲パンみてぇだなぁ……!」

「私の目を見て」

「……。……申し訳ございませんでしだ……つい……」

 観念したという面持ちでミサヲはしょぼくれる。非常に腹ただしい仕打ちではあったが、ミサヲのそんな表情を見ることが出来て怒りの気持ちも引っ込んでいく。その様子を見て身体を起こしミサヲと向き合うと、彼女はアヒル座りをして肩を落としていた。ということは、彼女は私の頭を彼女の脚に乗せて見守ってくれていたということなのだろうか。

「……ミサはずっと私を見ていてくれたの?」

「ん、ああ……んだよ。……さーや、ごめんな……ミサの話を聞いて気分悪くなったんだべ? ……やっぱり、話さねぇ方が良がったべかなぁ……」

「……ううん、違うよ。確かに、ミサの話を聞いて……ミサが、その時どんな風になっていたのかが鮮明に想像出来て……思わず……。でも、そうしないと私は一生ミサの最期を知ることなんて無かったんでしょ?」

「ほ、ほだけども……! ミサは、さーやさ苦しい思いをさせっちまっだのは間違いねぇべした? ……そんじはあんまりだべ、さーやのことを想っだにしてもない……」

 ミサヲはそう言ってまた俯く。今の今まで呆れる戯言を言っていた人間と同じとは思えない変わりようである。そしてミサヲはまた鼻をすすって何度も彼女自身の頭を振る。きっと自らがしたことにたいして嫌悪感を抱いているのだ。幽霊とはいえ、日に日に強くなる彼女との親近感を潰してしまいそうで、独り責め立てるミサヲを放っておきたくなくて私は彼女の側に腰を下ろす。するとミサヲは私の身体にもたれかかって私の名前を呼んだ。

 空を見上げると空の茜色は徐々に藍色に染まり始めていた。今まで盛んに鳴いていた蝉の声はすっかりなくなって今は烏の鳴く声だけが辺りを占める。

 ……何とも、壮絶な最期の記憶であった。ミサヲが亡くなったおよそ三十年前の話だとは言え、当事者が語るとその時の情景が色褪せることのない出来事だ。ミサヲがどのような時代に生まれて過ごしどのような生活の中にあったかが伺えるもので、彼女の最期が……彼女の話を聞いただけでは謎の残る部分はあったけれど、私はまた一歩ミサヲに近付くことが出来た。だけど、それは痛みを伴い気持ちを曇らせる。それらはまるで、私たちに対するそれぞれの相手への愛を試しているかのようだった。

「ミサ……。もう少し、このまま居よう。……良いかな?」

 私の問いかけにミサヲは小さく頷く。ミサヲは私の手に彼女の小さな手を重ねて握りしめた。次第に強くなるミサヲの手の握る強さはきっと苦しみの強さ。それに対して私は背負った痛みを上手く癒やすことが出来ずに彼女の側に居たままであった。

 当初から考えれば思いもしないことだ。こんなにも――愛する人と過ごすことが出来る夏は、こんなにも苦痛をも垣間見る頃だっただなんて……。

 



 私たちは神社で寄り添いながら夕方から夜へと変わる時間を共に見届けた。

 今抱いている心境ではとても動き出す気持ちにはなれなかったけれど、そろそろ帰らなくては両親、祖父たちに心配を掛けてしまう。それを思ってミサヲに話しかけると、彼女も同じ気持ちを抱いていたようで私たちは揃って神社を後にする。

 自転車に跨り家を目指して進む間中、ミサヲが私の腰に回す腕の強さもまた強くて、ミサヲを愛しいと感じて高鳴る鼓動の高鳴りとはまた別なものを感じて私は片手で胸を押さえつける。その妙な鼓動の上がり方は、片手運転をしてふらつくこの自転車とよく似ていた。

「……。ミサ、着いたよ」

「うん……ありがとない」

「……。ね、ミサ?」

 自転車からミサヲを降ろしてふと気になったことを彼女に聞いてみる。

「ミサってさ、ミサのお墓がある所に居なくちゃいけないとか、そういうのってあるの?」

「……いや? 神社にいると落ち着くからいつも居るだけだない。たまに別な所に居続けたりもすっけども……なして?」

「ううん。あのね、私たちがここにいる間は少しでも多くミサと一緒に居たくてさ。だから……一緒に過ごすことなんて出来るのかなって思ったの」

 ミサヲにそう言うと彼女は口を開けて笑う。

「んだな! 何もあそこがミサの家な訳でねぇからない。それに、ミサのことはさーやにしか判んねぇんだし、祟りかける訳でもねぇんだから別に迷惑させることはねぇしない。……そうすっと、ミサはさーやと一緒に同じ布団で寝ても良いのが……?」

「……ふふっ。うん! じゃあ……行こっか?」

 私たちは頷き合い笑顔のまま玄関に向けて歩き出す。我ながら名案だと、少し前まで抱いていた気持ちを跳ね除けるように気持ちが前に進んでいく。――だが、私たちのそんな嬉々とした雰囲気を打ち砕くように、開けた玄関の扉の向こうには仁王立ちする母の姿が居て、私たちはつい声を漏らした。

「……おかえり紗綾。まったくもう、どこをほっつき歩いてたの? もうすぐ七時よ?」

「ご、ごめんなさい……。ちょっと、色々あって……」

「お、お母っちゃま! ミサがいけねぇんだ、さーやを引き留めっちまっだばっかりに……!」

「……。まあ、無事でなによりだわ。けどね、紗綾はたまにこういうとんちんかんなことをするでしょ。今のところ何もないからいいけど……もしもの事があったら大変でしょ。最近色々と妙な事件も起きてる訳だし、いつ紗綾が巻き込まれるかもしれない。今の内から言っておくけれど、紗綾のたまにある悪い癖、早く直しなさいね」

 母は少々厳しい口調で私を叱る。確かに私は昔から頼まれると断れない性格であり、それが災いして遅い時間に帰宅するということも少なからずあるのだ。それを母は隠れながらも知っていてこうして言ってくれているのだと思う。

 私も私で気付いては居るけれど惰性に流されたままでいるのだ。ここは母の言う通りに何とかしなくてはならないことである。

「……さて。ご飯は用意してあるけど、今お父さんの同級生が見えてるからその後でも良い? 今ならお風呂が空いてるから先に入っても良いし」

「あ、じゃあ先にお風呂に入っちゃうね」

 私が母にそう言うと彼女は頷いて家の奥へと進んでいく。正しいことで叱られたにしても私の気持ちは曇りがかって溜め息をつく。するとミサヲは私の腕を引っ張って私を呼んでいた。

「……ごめんない。うんとお母っちゃま叱られっちまっでない……」

「ううん。確かに直さなきゃいけないことだし、仕方ないよ」

 ミサヲは居た堪れない表情をこちらに向けている。別にミサヲが悪い訳ではないのだ。だからこそそんな表情を彼女にはして欲しくはない。そういう想いを抱いてミサヲの名前を呼んで笑みを作ると、ミサヲはぎこちなかったけれど笑顔を見せてくれた。

「……さ、いつまでもクヨクヨしてても仕方ないよ。お母さんが言ってくれたんだし、お風呂に入らなきゃ。……お母さんね、ああ見えて結構なスパルタママだからね? 逆らうと後が怖いんだから」

「あらら、ほうか! ……なんだ、綺麗な薔薇には棘があるっちゃ本当だない……」

 ミサヲはそう言って下唇に片手の指を掛けて顔を青くする。

「……つうことは、大助くんもそういう所さ惚れて結婚した訳なんだない……。思いっきりマゾヒストだべした……」

「……ぷっ。それは否定出来ないかも……」

 ふと父と母のやり取りを思い出してみる。どちらかと言うと父から母にちょっかいを出すということは滅多になく、むしろ逆なのだ。母からちょっかいを出して父と和気藹々な雰囲気を作り出して、それは娘さえも躊躇う惚気具合である。……しかし、発言を聞く限りだと父が喜ぶ節には疑問があり正気かと思ってしまうこともある。それでいて母も笑顔で構っているものだから、そのじゃれ合いには顔が引き攣ってしまうというものだ。

「ね、ミサ」

 自らの部屋に入って、ふと生まれだした考えをミサヲに向ける。私はミサヲと一緒に居たいと言うことでこの家に招いたのだ。それならば四六時中彼女と一緒に居たいと言葉は生まれてきたのである。

「一緒にお風呂に入らない? 折角だしさ」

「……風呂? そだことしてもミサにとっちゃ意味ねぇべした? 汗をかく訳でもねぇのに」

「気分だけでも、ね? 一緒に入るのが目的じゃなくて……ミサと一緒に居たいんだもん……」

「……さーや……」

 私の言葉にミサヲは顔を赤らめて、入浴をする準備をしている私の姿を見つめる。ミサヲは少し考えた後笑顔を見せながら私の提案に応えたのだった。

「さ、さーやが良いっつうんだら……入っぺで?」

「あはは……。なあに? さっきまでは私の身体がどうとか言ってたくせに、いざ誘われると怖じ気付いちゃうの?」

「……。なはは、さーやはほんにお母っちゃまとそっくりだない? その……意地悪そう顔がよぉ?」

 ミサヲはそう言いながらこちらに近付いて私の頭に彼女の頭が付けられる。こちらとしては意地悪そうな所が母親似と言われるのは正直心外だが、ミサヲがはにかんでいる所が見られたのだから文句はない。そして私たちはそんなやり取りの後、一緒に浴場へと歩を進めていったのだった。



「いやあ、昔のまんまだない。善ちゃんの家も古いがら風呂場は広いわなぁ。これが冬だどガタガタ震えながら着替えなんねぇがら広けりゃ良いってもんではないぞない」

 ガラス戸を開けて私たちは浴場へと到着した。昔とあまり変わっていない様子にミサヲはまた声を上げてあちこちを眺めている。

「確かに広いよね、じいちゃんの家のお風呂場って。冬は来ないからあれだけど、私の家のお風呂だと狭いから新鮮だよ」

 私の自宅の浴場は一戸建てではあるが首都圏にあるために土地も狭く部屋の間取りなど察しのつくものである。それ故浴場もかなり狭いと言う訳ではないが、祖父の実家のものと比べるとどうしても狭く感じてしまう。だからこそ、喋る時に声が浴場内に響くその様子はとても新鮮だったのである。

「んしょ……っと。……?」

 何やら視線を感じる。またかと思いながら上の服を脱ぎ洗濯籠に置きながら横目でミサヲの方を見ると、やはりミサヲは蕩けそうな表情を浮かべてこちらをジロジロと見つめていた。

「……ミサ? そんなにじっくりと見ないでくれる? 着替えづらいでしょ……」

「おほほぉ……! いやな、折角のチャンスだべ、ここはしぃっがりど目に焼き付けておかねぇって思っでない! ここさカメラがあっでミサに持たしだらば激写もんだわ!」

 ミサヲはそう言いながらカメラを持つ素振りを見せながら人差し指をしきりに動かす。その発想はまさしくスケベ小僧というものを彷彿させる。……けれど、悪い気はしないものだ。

「……。そ、そんな写真を撮らなくたって……ミサが見たいって言ってくれたら、見せてあげるのに」

 恥ずかしいが本当のことである。彼女が求めてくれるのならば、私のこの貧相な身体を見せることくらい安いものだ。とはいえ、日に日にミサヲのためならばと言い訳して過激になっていく自らの思考に呆れてくるものだ。当初なら裸を見られても構わないと思うようになるなんて考えなかったから尚更である。

 今更になって僅かな羞恥心が高まって、胸元を腕で隠しながらミサヲの方をちらりと見てみると彼女は視線を逸し顔を赤くしながら頬を指で掻いていた。

「……さーや……。――どりゃあっ!」

「わっ!?」

「なはは! ミサもさーやと同じで上半身裸になったぞい! いやまず、二人揃っで見事な絶壁具合だなぁ! 呆れっちまうなぁ」

「……誰が絶壁よ、誰が……! ……それにしても……ミサ、本当にワンピースを脱いだらパンツ一丁なんだね……。去年も言ったけど、ノーブラって相当マズイんじゃ……」

 ミサヲは捨てるようにして彼女のワンピースを脱ぎ床に放り投げる。すると白く細すぎる、パンツのみの姿をしたミサヲの身体が曝け出された。その華奢な身体の肉付きは、食いしん坊を匂わせる発言を疑ってしまいたくなるほどである。

「ま、一般的に考えりゃほうなんだべな。ミサもなぁ……いまっとおっぱいあったらブラジャー付けんだけどなぁ……。あ、冬は寒ぃがら付けでっがら安心してくんよ!」

「……普段から付けなって」

 彼女の開き直った発言に頭を抱えていると、彼女は笑いながら躊躇うことなくパンツも脱いで生まれた時の姿になり、彼女の下半身に薄ら生えそろう陰毛にどきりとして顔が熱くなる。これだけ幼いような身体つきをしていてもやはり大人の身体なのだと改めて考えさせられる。

「どれ、湯さ入ぇっても感覚はしねぇべけど、入ぇる準備ぐれえはしなんねぇない。……んしょ」

 ミサヲは全裸のまま自らの艶のある長い髪を手際よくまとめていく。彼女がやり始めてからそれはあっという間の出来事で仕上がっていき、下ろされていたミサヲの長い黒髪は短くまとまっていった。

 それにしても早いものだ。それに髪を留めておく物を使わずに出来るなんてと、私は感心することしかできなかった。

「? なじょした?」

「ううん……。そういう風にゆったりとしたお団子結びなのに、ゴムやヘアピンを使わなくてもしっかり結べるんだなって思ってさ」

「ん? ああ。まあ、ミサは髪の毛が太いからない。んだからすっがり結べんのかもしんねえない。……だけんちょ、さーやはこれをやるとすぐ解けっちまいそうだない……。ほだ、ミサが結んでくれっがらタオル持ってこっちゃ来んせ」

 ミサヲに言われるまま彼女に背を向けて座り込む。普段ならヘアピンで簡単にまとめるだけなのだが、ミサヲは別な結び方を知っているのだろう。どんなものなのかと好奇心が湧いてきて彼女の言う通りにする。

 浴室のガラス越しに映るミサヲは、私の髪をねじりそれを丸めて小さく団子を作り、固めながら私が持っていたヘアピンを使って留めていく。少しずつ毛束をほぐしていくと作られた団子は大きくなっていって、シニヨンのような髪型になっていった。そして彼女は置いてあったタオルで私の額を覆ってからしっかりと張られたそれを耳にかけて、タオルの中にはみ出した髪の毛を仕舞っていく。しっかりとした巻き方で崩れてくる様子が全く無く、私はまた感心の溜め息をついた。

「すご……! こんな簡単に巻けるんだ……! それにしても、こんな風にすぐ出来るなんて凄いねミサ!」

「なはは! な? ミサもちっとは女らしい所あっぺ? さーやも天パーだかんない、半端な結び方したんじはあっという間に落ちてきっちまうべ? ちっと面倒くせぇけんちょ、湯さ漬けねぇようにすんにはこうした方が良いべ」

 そう言いながらミサヲは私の頭を優しく叩く。

「どれ! 準備も出来た訳だし、入ぇっぺで! さーや、戸を開けてくんよ!」

「……ミサって戸をすり抜けることが出来るよね? 私が開けてもあんまり意味がないんじゃ……」

「なんだなんだ! 急に冷たくなっちまって……。さーや、ミサはな? 甘やかさんにぃとな身動きが取れねえんだわ? だからな、そだ連れねぇごど言わねぇで、ない? ん? ん?」

 ミサヲは何やら見覚えのある行動を取って私ににじり寄る。彼女は私の手を握り、しきりに手の甲を擦ってくる。はて、この仕草には見覚えが……。

「……わぁかったってば! 本当にもう、仕方ないんだから……!」

 既視感はピタリと当てはまって、どこかの陽のような素振りが浮かび上がる。ミサヲは陽と同じように瞼を薄ら開け物欲しそうに強請っていた。

 こんなにも近くに同じ仕草をする人物が二人も居るなんてと世間の狭さに息を漏らしながら浴場の戸を開ける。石畳の床の先には大人二人がゆったりと入れるほどの浴槽があり、その大きな浴槽がある以外はシャワーや小さな窓があるなど他の家と変わらない造りである。床も趣がある造りで、その光景は小さな銭湯に来ているようだ。

「……! さーや。ミサな、何かしんにぃけんちょワクワクしてきたな! 久しぶりだからだべかな?」

「あはは、かもね。私以外にミサへお風呂に行こうなんておかしなことを言う人なんて居ないでしょ?」

「なはは! んだな!」

 そんな会話を交わしながらミサヲと共に入浴の準備をする。浴槽の蓋を開けると、夏で室温が高いにしても湯気は僅かに立ち込め私の目の前は薄い湯気に包まれその先には青色の湯が入り込んできた。浴槽の中の湯に手を差し込んでみると、指先からは少し温(ぬる)いくらいの湯が感じ取れ丁度いい温度だと思えて私は側にあった桶を手にした。

「……。ちと行儀悪ぃけんちょ、ミサは先に湯さ浸からせてもらうわ。ただ突っ立ってるよっかいいべ」

「あ、うん」

 ミサヲはそう言って浴槽の中に脚を先に入れてその中へと入っていく。その様子を見ていると彼女はやはり湯の感覚がしていないのだろう。表情を変えることなく身体を沈めて、浴槽の縁に彼女の顔を乗せてぼんやりとしていた。

 ミサヲのその様子に少しだけ申し訳ない気持ちを抱きながら身体に湯を掛けて吹き出していた僅かな汗を洗い流す。肩から先に湯を掛けると、丁度いい湯の温度が降り掛かって、下に行くに従って冷たくなっていく。冬ではこの感覚は苦痛に思えるものだが今の時期ではそれさえも爽やかに思えるものである。一つひとつがさっぱりとしていく様子を満喫しつつ一通り身体に湯を掛け終える。ふとミサヲの方を見てみると、彼女は何やら真剣な表情をしてこちらの方を見つめていた。

「どうかした?」

「……。いや。さーやってよぉ……」

「うん?」

「意外とおっぱいの形綺麗なんだな? 胸が無ぇっつってだ割には丘ができてっつぉよ……」

「――!? バ、バッカじゃないの!?」

「いやあ、良っぐ観察してみっど判ることもうんとあんない。さーやはAカップだべ? ミサはその下だからな、AAなんざツチノコを見っけること並みにレアだべした……」

 ミサヲはそう言いながら感慨深そうに何度も頷く。

「……ちょ、ちょっと前までは本当に真っ平らだったよ私……。でもやっぱりコンプレックスだから……こう、悪あがきと言うか……雑誌に書いてあったバストアップの方法を試しただけだよ」

「そんなのあんのが!?」

「……揉むだけだよ? こう、全体的に刺激して血流を良くするやり方というか」

「なは! そんだらばミサ、我(わ)がのをやるよっか人のをやりてぇな! おっぱい触り放題だべした! そっちの方が楽しそうだない……!」

「……。ホントバカ……」

 この世の楽しみを見ているような表情をしてミサヲは両手を小さく回す。呆れるというか、妥協する気持ちも薄れてくる。

「ミサ、私も入るよ?」

 ミサヲにそう言って私も湯船に片足を入れてその中に入っていく。湯船の中に身体を全て入れて浴槽にもたれ掛かると、私の身体に湯の温かさが取り巻いてその気持ちよさに溜め息をつく。するとミサヲは私の名前を呼びながら近付いて私の脚の上に後ろ向きで乗ってきたのである。

「ふふふっ……。ミサ……」

「なはは。さーやー……」

 ミサヲは私の身体に彼女の身体を寄せてもたれ掛かる。先ほどまでの賑やかな様子はなく、浴場の中は静かに時間だけが過ぎていく。ふとミサヲの方を見てみると、湯の中に浸かっている彼女の身体は、浸かっている先だけ見えなくなっていて入浴剤の青色だけが一面に広がっていた。幽霊なのだから実体もない上に透き通ってしまうのは至極当然のことであるが、その様子は何とも言う気にもなれず辛い現実を見せつけられてしまっている。ミサヲは私のそんな気持ちと裏腹に心地よさそうな表情を浮かべて私の胸に小さく収まって頬ずりをしていた。

「気持ちいいない。ミサ、温かくもなんともねぇけんちょもさーやと居るだけでも温まってくる気がするわ。ほんに……恋をしたって気持ちっちゃ、こういうもんなんだべかない?」

「……ふふ、かもね。私も初めて本気に好きになった人ってミサが初めてだから、なんというかドキドキしてるよ。……周りがね、恋人を作りたい、恋をしたいっていう気持ちが解る気がするよ。こんなにも私のことを見て欲しい、もっと相手を見ていたいって思う……それはもう、それだけで一日が終わっちゃうくらいに……。切なくなっちゃうの、ミサ……」

 言葉を紡ぐたびに鼓動は大きくなっていき吐き出される言葉はおろか吐息さえも震えてくる。そうしているとミサヲは私の名前を呼んで彼女自身の顔をこちらに近付けて、私の唇に優しく触れてきた。少しの間を挟んで私たちの唇は離され、熱のこもった吐息が私たちの間には漂っていた。

「……んだない。ミサもな、盆が来て目が覚めっど見える景色は真夜中なんだない。多分な、日が変わっだと同じぐれえに目が覚めんだべない。夜中だしあっちゃこっちゃ行く気になれねくてミサは神社でボーッどしてんだわ。……そん時はいっつもさーやのことばっかし思い浮かべるんだわ。そんな気持ちは去年がら……今のさーやを始めで見かけた時からなんだわ。……何度溜め息ついたが判がんねぇ。遠くさ居っがらすぐには逢えねえし、つってさーやには無理をさせだぐねぇ。……難しいない。いっそのごと、さーやはミサの物になっちまえばいいのに……。だけんちょ、それはなんねえんだない……」

「……。どうして?」

「……。さーや。普通は幽霊と結婚なんてできねえんだぞ? おまけに女同士だべし……こんじは、さーやに辛い思いをさせっちまうべした? ……ミサはなさーやに――」

「――本当にそれでいいの……?」

 ミサヲの言葉を遮って彼女に問いかける。

 ミサヲの紡いでいる言葉の先はきっと、他の人と出会って結婚をして、家庭を築いて欲しいということなのだろう。それが、人という生き物の歴史を作ってきた糧というものなのだから。

 けれど……それでも、私はミサヲがいいのだ。

「私は……私は、ミサがいい。確かに叶わないかもしれない気持ちだよ。……それを解った上で言ってるの。……ミサの過去を受け止めきれなかった自分が悔しいけど、知らないでいた時よりはずっといいから……だから、私はずっとミサの隣に居たいよ。どんな時だって……」

「……。なはは。さーや……。さーやは、ほんにおんつぁも良いとこだべ。叶うわけねぇのに……。ああ、婿さ来てだ大じっつぁまの口癖を思い出すなぁ……ほんに、さーやは……おんつぁげすだべっ……!」

 ミサヲはその言葉を最後に喋らなくなってしまう。今の状況のミサヲから伺えるのは、流さないにしても次第に大きくなる嗚咽と震わせる彼女の両肩だけだった。

「……ミサ……」

「……分かってんだ、ミサだって……分かってんだぞい……。……。……だけんちょ、これだけは確認してえない。……さーや」

「……うん」

「はぁ、後戻りは出来ねえぞ? それでも、さーやはミサを選んでくれんのが?」

「――うん。それでも、だよ」

「……っ。……。……ずずっ。……ああ、やめやめ。こだしんみりとした話はミサの性に合ってねえわ。……ありがとない、さーや」

 ミサヲは鼻をすする素振りを見せてこちらを見つめる。ミサヲの顔に浮かんでいたその表情は、今まで以上に晴れやかであった。

「……はあ。ちっと話題を変えっぺ。ミサ、さーやのことまだまだ知らねえがらよ、さーやに聞きてぇことがうんとあんだったわ」

「うん? なあに?」

「まずは……うーんとない……。さーやはよ、身長はなんぼなんだ?」

「え? 一六八センチだけど……」

「ほおお! いやな、ミサ一四〇ぐれえだったがらよ、モデルみてえでいいぞなぁって思ってない。それに、ミサから見ればさーやは巨人みてえなんだわ。……いや、ガーデアンっつだ方がピンとくっが? さーやはずんねぇんだない」

「絶対バカにしてるでしょ……! てか、ガーディアンなんて単語どこから……!」

「なんでだで! 守護神だぞや? 強そうで頼りがいがあっぺしたよ!」

「別な表現があるでしょ……!? ……聞きたいのってそれだけ?」

「いんや、まだまだあんだけど……どれにすっぺ」

 ミサヲは強く瞼を閉じて唸りながら考え込む。そうしていると、私はミサヲに対して聞きたいことが生まれてきて彼女の考えに割入って質問することにした。それに対してミサヲは快く応じてくれたのだった。

「ミサが生きてた年代の人でもミサの名前って珍しかったの? ミサの名前ってさ漢字一文字じゃなくてカタカナで書くしさ?」

「んだなぁ。真由美だとか久美子だとか……そういう名前が多かっだない。ああ、ひらがなでゆかりっつう人も居だな。……考えてみりゃカタカナはミサだけだったな! ったく、わげの海藏くんはひねくっちぇっがら「ヲ」にしてない?」

「ふふ、でも一つでも目立つ所があるとすぐ覚えて貰えると思うな。そう考えるとミサの名前ってすぐに憶えられたし耳馴染みも良かったよ」

「ほお! なんだ初めて名前で褒めらっちゃな! 海藏くん、悪がったない!」

 ミサヲはそう言いながら浴場の天井を見上げて、手を上げらからからと笑いながら謝罪の言葉を述べる。実の父に対してなんと軽佻浮薄(けいちょうふはく)な言動だろう。彼女の両親に同情しつつミサヲの姿を見ると、恥ずかしそうに笑いながら頭を掻いていてその様子が愛くるしく思えてくるのである。そんな隠れながら素直な行動を見せられると怒る気も失くしてしまう。

「――紗綾? ちょっと開けてもいい?」

 浴場のガラス戸の奥から母の声が聞こえてきて私は驚きながらその声のした方へ振り向く。他の人から見ればこの場所には私しかいないのだ。今の今までのようにミサヲと楽しく会話をしていたとなると怪しい極まりない様子である。そんな経緯があって私は慌てて母からの問いかけに応えたのである。その応えに母は小さく返事をしてガラスの戸を開けたのだった。

「急にごめんね。湯加減はどう?」

「う、うん大丈夫だよ。どうかしたの?」

「こっちに来る前にスーパーで買物してきたでしょ? お母さんにシャンプーが切れてるからついでに買ってきてって頼まれててね、買ったままで入れるのを忘れてたのよ」

「ええ……。まあ、まだ頭は洗ってないけど……」

「うん。だから思い出して持ってきたの……って、あら?」

 母はこちらにつめかえ用のシャンプーを見せながら何かに気が付いたような様子でこちらを見つめている。

「紗綾、なんだかかわいいタオルの巻き方してるわね? いつも巻いてたっけ?」

「ううん……えっと……」

 ミサヲに巻いてもらった、とは母に言うことが出来なかった。それはミサヲのことを知らない相手の母であり、誰と聞かれたら答えに詰まってしまう。ずっと黙ったままで居るわけにはいかないと私は適当な言い訳を思いついてそれを言葉に変えていく。支度を整えてくれたミサヲには悪いけれど、この場ではそうするしかないのである。

「ざ、雑誌に乗っててさ……ちょっといいかなって……あはは……」

「……。それ、ミサがうんと昔に美容室のばっぱちゃんに教えて貰っだやり方なんだけんちょ?」

「……ごめんって……」

「へえ! いやね、そういう風に巻いてるのって懐かしいなって思ってね。お母さんもやったなぁ。紗綾と同じくらいの時だったっけ」

「……一体何年前なんだろ」

「ん? なんて?」

「……! な、なんでもありません……」

 笑顔を覗かせながら握り拳を作る母の行動に私は慄いて言葉を誤魔化す。そのやり取りを見ていたミサヲは機嫌よくゲラゲラと笑い声をあげた。見えないものが見えている私にとって今の状態は板挟みであり逃げ場がない。つい零してしまった溜め息はやり場のない憂いさを晴らすための唯一の手段なのである。

「さて。紗綾、これを容器に入れておいて?」

「……。……ふむ……?」

「うん、今そっちに――ひゃっ!」

 母がこちらに向けてシャンプーの袋を差し出して取るように促している。それに応えようと私が浴槽の縁に手をかけた、その時である。突然私の尻の方から指か何かでなぞられたような、弱く細やかでありながらぞわりとする感覚に思わず声を荒げる。ふと視線を下にすると、ミサヲは私の腹に抱きついていた。

「ちょっ、ミ……!」

「……? 紗綾?」

「! ご、ごめん……今い――くっ!?」

 今度は胸元の方から、いや、乳首と言った方がいいだろう。そこから抓まれた感覚がして、妙な気持ちの良さに声が裏返る。きっと先ほどと今の感覚はミサヲの仕業だろう。彼女は私の身体にしがみついたまま動こうとしないのだ。確かたる証拠はないけれど、きっと何かしているに違いない……!

 そんな感覚に苛まれながら母の方を見ると、彼女は怪訝な表情で私のことを見ていた。

「……どうしたの? どこか痛いの?」

「ち、違う……! お、お母さん……それ、そこに置いといて……! 取りに行くから……!」

「……そう? じゃあ、ここに置いておくわね。それと、長風呂もいいけれど逆上せないようにね」

 母はそう言ってシャンプーの袋を浴場の出入り口そばに置いて戸を閉める。母が戸を閉め次第に遠くなっていく足音を聞いて私は久しぶりに安堵した息をつく。しかしその吐息はすぐに消え去り、話をしているにも関わらず手を出してきたミサヲに、私は怒りを憶えていた。

「……っ! もうっ! ミサ!?」

「なはは……ごめんない。……いやな? さーやが何かしらやっでっ時にちょっかい出すのがおもしゃぐでな……」

「……! あのねぇ!? 時と場合ってのが――」

 悪びれた様子を見せることなくミサヲは私に背を向けてクスクスと笑っている。あと少しで実の母親に対して妙な声色の鳴き声をあげるところだったと言うのに、ミサヲは私にその表情を見せることなく笑い続けるのだ。この仕打には流石に頭にきて額に何かが横切った感覚の後、私の喉から吐き出される声色は吐息さえも怒気に包まれていた。こうなってしまっては私でも押さえ込むには遅すぎる。独り風呂場で怒鳴る所を家族に見られてしまう、その時だった。

「――だけんちょよ? さーやの身体は正直だぞない? ほれ、こうやって抓らっちゃ方がいいんだべ?」

「ちょっ……ふあっ……!」

 ミサヲは私の胸の中に収まって言葉を続ける。その時に彼女はやっと私の方を向いて身体を触るのだ。それも優しくこね回すように……愛撫するという表現が当てはまるようにゆっくりと。やけに慣れたその手つきを身体で感じていると私の気持ちに対して反していると認識して、怒りと心地よさがせめぎ合って考えがまとまらなくなってくる。

「ちょ……ちょっ……! ミ、ミサ!? 私怒ってるんだからね!?」

「ほぉ? んだら……なしてここはこだことになってんだで? やたら滑っでけんちょ?」

「――っあ……!?」

 そう言いながらミサヲは私の乳首を噛んで、私の股の間に手を差し込んでくる。湯船の中にいるとは言えミサヲは私の秘部の敏感な部分をかき分けるように指で押し広げてその奥に彼女の指が入り込んでくるのだ。少しだけ熱い湯の感覚に驚いたけれど、それよりもミサヲの指は熱くてうねってくるその動きに私は思わず快感に咽る声を漏らしたのだ。

 ……確かに、ミサヲの言っていることには間違いはない。だからこそ腹ただしいのだ。母が見ているというのに感じやすい所を触られてしまったら、バレたら大変だと私の身体は我慢をするために理性という大きなブレーキを掛けて感じていることをそのまま曝け出すことを阻んでいるのだ。

 そうやって我慢をしているからこそ、身体は何故か欲しがっていつも以上に敏感になってしまったのだ。我慢をしなくてはいけない時に刺激をされてしまったら、理性と快感が溶け合って、腰が砕け散ってしまいそうな未知数の快感が押し寄せて私を苛んでいたのであった。

「はああ……! さーや、去年よっか濡れてんない? 指を動かすたびに、ミサの指がどんどんすんなめっで指が全部入っちまうぞよ……!?」

「んあっ……! だっ、ばかあ……! い、今っ……そんなこと、されたら……! すぐいっちゃ……!」

 身体は既に出来上がっていた。快感をもっと欲しいと欲張っている私の身体は、その機能を存分に用いてミサヲからの施しを吸収している。ミサヲは私の膣内に指を二本も入れてかき回しているのだ。そうされると身体は湯に浸かって、快感に抗おうと身体を動かして立てる波の音と同じように、膣内もミサヲの動きによって愛液を沢山出して水面下であってもその卑猥な粘ついた蜜をかき回す音が聞こえてきそうだった。

「……。いいぞい? ミサにいまっと、さーやのとろけっちまう顔を見せてくんよ……!」

「あっああっ……! そん、なにっ……ぐちゃぐちゃってされたらあっ……! あっ……やあっ……――」

 その自らの言葉を最後に一瞬だけ意識が飛ぶ。ミサヲが私の膣の内側に指を立て、つついて――やがて私は飛び出そうになった快感に塗れた声を押さえ込みながらミサヲの指で果ててしまったのである。

「……っ。……な、なはは……さーや、その、なんだ……。声を押し殺しながらいっちまうなんて……ミサ、なんか……」

「はっ……はっ……」

「……! かああ、ちょっとしだ悪戯心でやったらば、思いの外決まっちまっだな……! ……。さ、さーやさん?」

「……。ミサぁ……?」

 確かに気持ちよくて、それは今までにないほどのものであった。……だが、それをしたからと言ってミサヲの罪が逃れられる訳ではない。絶頂を迎えた後とは言え私の意識はしっかりとしていて、未だに怒りの炎が燻る私の視線はミサヲの気まずそうな表情を突き刺すように睨みつけていた。

「……いげね……! あ、あー! さーやさん? そろそろ上がっペで? ほれ、お母っちゃまも言ってたべ、長風呂してなんねえっで! だがらない、そろそろない、風呂上がりの牛乳でものむべ……な……い……!?」

「――! ……!」

 呆れるほどの言い訳に私の身体の血液の巡りが良くなってきて、二本の脚は私を立ち上がらせる。そして、私の顔中の筋肉が強張っていくのが感じ取れるのだ。それはもう、自分自身でも瞬きをしていないと判るほどに。

 しかしながら、鏡を見ていないために私がどんな表情をしているかは分からない。――だが、目の前に居るミサヲの青ざめた表情を、今まで見たことのない白目の多い彼女の眼の様子が物語ってくれていることだろう……!

 その後ミサヲは私に対して彼女の額が削れるほど土下座を繰り返していたということは言うまでもない。



 一段落が付いてその日のすべきことが終わった頃には既に真夜中になっていた。昼間に聞こえていた沢山の蝉の声は今ではなくなり、辺りは静寂に包まれていた。聞こえてくるものと言えば、夜とはいえ少しだけ暑さの残る気温から逃れようとしきりに動かした私の脚がシーツに擦れる音と、どこか遠くの目的地へと向かっている天空の彼方を飛んでいる飛行機の微かな翔ける音だけであった。

「……ううん、すうすう……」

 そしてもう一つ、寝付きの悪い私とは対象的な心地よさそうな寝息を立てるミサヲの声色も少し前から聞こえ始めている。

 暑いからと、いつものように部屋の窓を半分だけを開けて私とミサヲは共に眠りに就いていた。数時間前までミサヲは彼女らしい下品な発言をこれでもかと言っていたけれど、今となってはそれまでのうんざりする様な発言が嘘のように無くなって今の彼女の顔に浮かぶのは柔らかそうな頬が搗(つ)きたての餅のように揺れて、触ることが出来たのならそれだけで悶てしまいそうなそれらだけ。こんなにも無防備な姿を見せられると、暑くて寝苦しい夜と相まって中々寝付けそうにないものである。

「……ふふふ……。ミサ、寝顔は本当にかわいい……。一緒に喋ってる時もかわいいし笑ってる時も格別だけど……この表情には、勝てないかなぁ……」

 眠っている時のミサヲは何故かうつ伏せで寝ている。私の使う枕を半分ずつに分けて共に使っていても、ミサヲは枕に彼女の顎を乗せ眠りに就いている。出会った時は仰向けで寝言が多かったけれど、布団に入るとどうも違うようだ。ミサヲは頑なに体制を変えようとはしないのである。

「……っか……」

「……? ミサ……?」

「……か……。……おっとぉ、おっかあ……なあ……」

「……。寝言、か……。……思い出したその中にも、ミサのご両親の記憶もあったのかな……? ……きっと、楽しい時のことを思い出してるんだろうね」

 ミサヲは夢の中で見ているであろう父親と母親のことを呼んでは笑みを見せる。彼女にとっては大事な肉親であり、ミサヲから聞いた話題には両親に対する憎しみを持った思い出話がなかったことから彼女の家族の仲は良好だったのだろう。そうでなかったらこんなにも嬉しそうな声色は聞くことはない。

 うつ伏せで眠っているために私から見える彼女の表情というのは横顔だけだ。それでも彼女の白い素肌と、時折見せる彼女の小さな吹き出し笑いははっきりと見ることが出来る。横顔とは言っても、ミサヲの表情はやはり豊かであった。

「……」

 そんな幸せそうな彼女の様子を見ているとミサヲの楽しげな表情に胸が暖かくなる一方で、どこか冷たく辛い気持ちが、細やかな刺激ではあるけれど私の身体に突き刺さってくるのだ。その一番の要因というのは、時折窓の外から入り込む月光の弱い光がミサヲの身体を照らして彼女の姿を暈けさせるということなのである。

「……。ねえミサ、風邪引いちゃうよ……? ちゃんと布団をかけなきゃ……。……なんて。かけられる訳ないじゃん……」

 自らの腹にかけている布団を引っ張ってミサヲの身体にかけようとする。しかし、彼女の身体にかけようとした布団は彼女の身体をすり抜けてミサヲの身体の中に消えていく。

 ……わかっているはずなのに、どうしてこんなことをしてしまうのだろう。落ち込んでしまうと分かっているのに、どうしてこうせずにはいられないのだろう。――どうして私は、彼女に触れられないのだろう。

「……解ってるよ。私は人間で、ミサは……幽霊。何度確認したって同じ、夢じゃないんだから触れる訳がないよ。……わかってるのにっ……!」

 理解(わか)っているのに、理解りたくなかった。去年知らされた真実なのに受け止めたくはなかった。ミサヲは既に死んでいるのだと――

 だが、判ってしまったからこそ見えてきたものも確かにあるのだ。ミサヲは私の父より歳上で、ひょうきんで見かけによらず下品で、スイカが好きで山へ遊びに出かけていたためか地理にとても詳しい。それに私のことを昔から知っていて好きになってくれて、こうやって今年も一緒に居てくれている。

 ――先ほどのやり取りで再確認した、私たちが互いを想う気持ちも相違することはなかったのである。愛している、と。

 嬉しかった。こんなにもミサヲのことを想い愛しているから。――だからこそ認めたくなかった。愛し合う私たちの間に生者と死者という隔たりがあるということに。

「……ッ……!? ……っぷ……!」

 夕方に襲われた感覚がまたしても私の身体に降りかかり咄嗟に起き上がる。口から吹き出そうになる物を手で覆い隠しながら近くの窓に駆け寄って、やや乱暴にサッシを開ける。そして私は窓枠の縁に手を置いて、何度も空気を乱暴に取り入れたのだった。

「……。はあっ、はあっ……! ……っん。あ、危なかった……」

 神社の時のようにまた胃の中からもどかしさを地面に吐き出してしまうことを免れて一息つく。その際、唯一私の手に付いてしまったものと言えば、口内に湧き出したやたら粘つく唾液が糸を引きながらへばりついているだけであった。

「……私って、こんなに脆かったのかな……? 今まで、こんな風に身体に影響が出るなんてことなかったのに……」

 息を整えて、窓の向こうに広がる夜空を見つめながら今までのことを辿ってみる。

 久しぶりにミサヲと出会い、身体の中は待ちわびたという気持ちで一杯になり、抱いて間もない好意という恋心は、ミサヲの身体を押し潰してしまいそうなほどの勢いを抱いているのである。これは去年よりも強い気持ちで自分自身でも驚いているほどだ。

 それと共に、私の驚く気持ちの変化と言うのは悪い方向に遭遇した時にも現れ始めている。今まさに起きようとしていたことが良い例であるだろう。ミサヲのことを想うばかりに、受け入れたくない現実を目の当たりにして、強い抑制と認めたくないという気持ちが膨れ上がって、現実とせめぎ合いその代償を私の身体を用いて教えてくれているようだ。

 実際に、ミサヲが既に死去しているということが未だに受け入れられていない。ふと視線を私の寝床に移すと、そこには心地よさそうに眠るミサヲの姿。まるで犬や猫が昼寝しているような格好で眠っているのである。――こんなにも生きている人間と同じような素振りを見せているのに、友人たちと会話をすること同じことが出来ているのに、どうして……。そんなことばかりが私の頭の中を埋め尽くしていくのである。

「……。お父さんの近所に住むお姉さんで、元気いっぱいなミサ。……私の知っている人の中でこんなにもハイテンションな人はミサが一番かな。今までは陽が一番だったけど……いや、いい勝負かも……」

 これが陽とミサヲを会わせて話をさせたらと想像してみると、会話の途切れがなく延々と続けられ私が置いてけぼりにされてしまう様子が簡単に想像がつくというものだ。

「……。どうして、私はミサと普通に接することが、許されないんだろう……」

 ふと出た自らの言葉の意味が強いことに気が付いて口を結ぶ。

 何も誰に抑制されている訳でも規制されている訳ではない。これは、私が自ら飛び込んだことなのだ。幽霊に恋心を抱いて、触れられないということを判っていて、自虐するように自分自身を知らずの内に苦しめていく。私は自らの歩んだ道で彷徨っている。ミサヲの側に居続けることができないと、自らが蒔いた種に苦しみ喚(わめ)きながら。

 因果応報。今の私にはそれが相応しい言葉なのかもしれない。判っていながら、残酷な現実に苛まれる。それが美しい愛の形などと綺麗事は言わないけれど、私はそれを選んで苦しんでいるのである。

 そうと判っているならば苦しまずに済む方法など沢山あるのだ。例えばミサヲのことを忘れる、ということである。それは彼女の何もかも。だが今となっては引き返しが出来ない所まで来ている。ならばミサヲと関わるのを今すぐに止めて心が落ち着けることをすればいいのだ。そうすれば、私の曇った心が見せる景色はすぐにでも晴れやかになるだろう。

 けれど、私はそうしたくなかったのだ。なぜなら、こうやって痛みを解っていないと私自身に納得が出来なかったからである。

「最初は、ミサが死んじゃってたなんて分からなかったけど、それはミサが教えてくれて、死んじゃった時のことも去年今年と掛けて教えてくれた。……なんでなの? 去年の時点でミサがもうこの世には居ないってこと、分かってたんじゃん。だったらどうして……? ……どうして、こんなにも心を惹かれるのは、ミサだけなんだろう……?」

 だが、私にはそれがいまいち分かっていないのだ。分かることとすれば、それはいつまでもミサヲの側に居たいということだけだ。

 好きな人と居るだけで、感じるものの全てが強く鮮明に映り込んでくる。こんな感情を抱くのは、ミサヲと居る時だけである。私の中で一番したいことがある、してあげたいことがあるとするならば――やはりミサヲに関することなのである。

「……バカじゃん。こんなの、理想の相手に思いを馳せ続ける寂しい人と変わらないじゃん。叶わない恋……こんなに、こんなにも胸をしめつけ……られるくらい……ならっ……」

 私には見えているのに、私たち以外の人間からは見えない。私たちの思い合う気持ちも、ミサヲの形姿さえも。私は、ミサヲという幻に恋をした。しかしミサヲは確かに存在していた人であるのだ。したがって空想の人物ではない。それなのに触れることは出来ない。……それなら、やはりミサヲは幻と見做されてしまうのか――

 ……苦しい。そんな考えを思いつくだけで、現実という普遍という名のあるべき姿に絞め殺されてしまいそう……。

 紡ぎ出される言葉にやがて涙が混ざり始めて私の瞼が濡らされていく。そして言葉には出すまいと封印していた気持ちは、歯ぎしりを立てながら溢れていくのだった――

「――こんなに辛い気持ちになるなら、ミサに恋なんてするんじゃなかった……っ!」

 吐き出された言葉に後悔を憶えながら壁に背中を引きずって窓下に座り込む。自らが決めたことなのに、辛くて投げ出してしまいそうな自分自身が情けなくて。想っているミサヲに申し訳無さがしゃしゃり出て不謹慎の誹(そし)りない私の行いがただ悔しかったのである。

 それでも涙は溢れ続ける。今流れ落ち脚に砕け散った涙の雫は、今まで感じたことのないほど冷ややかだった。

「……っ! こんなの、ミサを好きになる資格なんてないよ……! 本当は、ミサとずっと一緒に居たいのに……! だったらどうして……!? こんなにもミサの事実を受け入れられないの……!?」

 嗚咽混じりに言葉は吐き出される。

 こんなにも誰かを想って涙を流すなんて何時以来だろうか。そんな風に考えてしまうほどに遠い記憶だからこそ苦しむのかもしれない。

「……。……ダメだよこのままじゃ……。こんな、弱いままじゃ、ミサがもっと遠くなっちゃう……」

 今の私をこのまま引きずってしまったら暗い気持ちのまま、楽しいミサヲの部分を知るだけの薄っぺらいミサヲの恋人になってしまう。

 ……それだけは、嫌だ。この気持ちだけは、はっきりと言うことが出来るのだ。

「自分で決めたことじゃん、それでもミサが良いって……。私は、そのことに嘘をつきたくない。ミサと出会わなかったら今の私とは違う私が居た訳だけど、だけど私は今のままがずっと幸せだよ……好きな人と過ごせるこの季節も何もかも。……ミサ、ごめんね。ミサの方がずっと辛くて待ちわびてたのに……ホント、私ってダメだよね……」

「……い……や、むにゃ……」

「……? ……ミサ……?」

 ふとミサヲの方を見ると、ミサヲは小さな頭を微かに動かしながら何かを呟いている。彼女に近付いてみると、その言葉がはっきりと聞こえてきたのだった。

「……えへへ……さーや……! さーやが……ったこれ、美味いない……! ミサ、幸せだなぁ……」

「……ふふ。今度はまた食べ物の夢を見て……おまけに私はついでみたい。……でも、こんな風に私を夢にまで見てくれるなんて、嬉しいよ……」

 涎を垂らしながら眠りこけるミサヲの姿を見て、今まで抱いていた気持ちが嘘のように軽くなって涙を乾かすような笑みがこみ上げてくるのである。私も、今ミサヲが言ったように夢の中でも幸せと呟けるようになりたいものだ。

「……。よし、寝よう。今日はあっちこっちに行って疲れてるし、ここに居られるのは明日までだから……しっかり疲れを取って、明日もまたミサといっぱい居られるようにしなきゃ。……だからミサ、ちょっとだけ甘えていい……?」

 返事を期待する訳ではないが、ミサヲにそう言葉を投げかけて今まで頭を乗せていた枕を抱きかかえてミサヲの側に横たわる。そして、抱きかかえた枕をミサヲの身体に見立てて枕に顔を埋めるのだ。

「……ふふふ……。こうするとミサに抱きついて寝てるみたい。……幸せ……なははっ……――」

 両腕で包み込む枕に力が込められ私の身体を形取って窪みを作る。まるでミサヲとともに眠りについているようで、つらい気持ちを抱いていてもそれは嘘のように消えてなくなり、この時の眠りにつく瞬間は今までにないほど心地良かったのだった。



「……や……い! ……ーや!」

 賑やかな音に気がついて意識がはっきりとしてくる。目が覚めようとする瞬間というのは瞼を閉じているにしても薄ら光が差し込んできて自らの意識がより鮮明になってくるものである。今私の側で聞こえてくる音もミサヲの声だと感じ取れて眠気があっという間に取れていくのだ。

「さーや、朝だぞい! 起きんせよ! ……なんだ起きねぇなぁ……。さーや、ミサに構ってけろぉ……!」

 既に起きている訳だが、甘えているような声をあげて身体を揺さぶりながら私を急かすミサヲの様子も何だか愛らしいものだ。そうだ、少しだけ寝たふりをしてしまおう。

「さーや、早起きは三文の得だべ。早起きすっどいいことあんだぞい?」

「……」

「……ダメか。んだら、早起きしたミサは三文の得を満喫すっぺで? どれどれ……おおっ、さーやのおっぱいやわっけぇんだなぁ……。いやしかし、この控えめな大きさもその人を表しでんのがもしんねぇなぁ。ちんちゃく控えめなこれはさーやの奥ゆかしさを表しているんだなぁ」

「……んっ……」

「……。なんだ、朝なのにその気になっちまいそうだな……! 朝飯はさーやを頂くべがな……!」

「……っ」

 ミサヲのその言葉とともに首筋には擽ったい感覚が走っていく。瞼を少しだけ開いてミサヲの様子を伺うと、彼女は私の首元に顔を近付けてもぞもぞと何かをしている。首元から聞こえてくるその音を聞いているとどうやらミサヲは口付けをしているようである。

「ぬふふ……寝てるさーやにこだことをしてっどいげねぇ気持ちになる反面楽しくなってくんだなぁ……! こういうのを睡眠姦って言うんだべか……!」

「……。すいみんかん……」

「はあ……さで! そろそろメインディッシュがな! さーやのんまそうな唇さ、んーっま! んーっま! っどしねえとない……!」

 そう言ってミサヲは何度も自らの唇を弾く素振りを見せる。これもまた大層な阿呆面である。

「……ミサ? その顔恥ずかしくないの……?」

「なはは! さーや、ミサの羞恥心なんざ遠の昔さほろっできただな! ……っで、起きてだのがよ?」

 そろそろミサヲの百面相に呆れてきて彼女に声をかけると、ミサヲは私に起きていたのかと言っているような表情のまま目を丸くしてこちらを見つめている。

「ちょっと前にね……ふわあ……」

「なんだ寝起きが悪ぃみてぇだなぁ。おはようさん」

「うん、おはよう……。だってさ、いつもこんな早くに起きないもん……」

「早い? ……はぁ六時半だべ」

 ミサヲのその言葉にこちらも壁にかけてある時計を見てみると、確かに今の時刻は六時半を指していた。

 いつも私が学校に行く時に起きる時間と言うのはもう少し遅く、七時半を過ぎて起きても何ら支障はない。自宅から学校に行くまでの時間はバスで二〇分くらいの所にあるのだ。だからこそその時間に起きて支度をして朝食をのんびり食べていても遅刻をしたことはないのである。

「はああ。さーやは、朝はのそらしてるタイプ……と」

「なんでメモ取るの……紙もないのに……」

「いやな、ミサは気が早いタイプだからよぉ早く起きっぢまうんだない。だがらいつまでもさーやが寝てっどよ寂しいんだない……」

「あ……。ご、ごめん……」

「なはは……いいでば」

 そう言ってミサヲは腕を組み深く頷いている。とは言えミサヲの表情には些かの憂い表情が浮かんでいる。

 確かに私は休みの日となると十時まで寝てるということが少なからずある。それが原因で何回母に叱られたか分からないほどだ。

 それを考えると起きる時間が対照的な私たちの間には少しばかりのギャップが生じてしまうのだ。……正直な話、早くに起きて何かをするのはあまりやりたくないのだ。とは言えミサヲの寂しそうな表情を見るのも心苦しいもので見るに耐えかねるのである。

「ワガママは言わねぇよ。今のところさーやにはミサのせいで振り回さっちぇっがらない。それに、今日も始まっだばっがしだがら贅沢は言わねえぞい」

「ふ、振り回されてるなんて……そんな風に思ってないよ……」

「なはは……。さーや、あんまし遠慮しなくでもいいんだぞい? ……正直な所な、ミサもさじ加減がまだ解ってねえんだわ。んだがらたまにさーやを怒らせっちまうし。だがらな、うんと文句を言ってくっちいいんだぞ? ……恋人同士だべ、ミサらは……」

 ミサヲは未だに布団の中に入っている私に近付いて太ももの上に座り込んでこちらの身体に抱きつく。昨日の夕方の時のような浮かない表情ではなく、うっとりとした表情をして。そんな表情をされたら、そんな麗しい瞳を浮かべて頬ずりをされたら鼓動がうるさいほどに高鳴ってなんと言葉を掛けていいかわからなくなってきてしまう。

「……いいよ、それでも。さじ加減が分かっていないのは私もだから……。ミサの時たま出る下品な発言も慣れっこだし……それに、私もそれには耐性がつき初めちゃってるし、さ。ミサも私に遠慮なんてしたら、それこそ今言った恋人同士っていうのに背いちゃうでしょ……。ただでさえ一緒に居られるのは今の時期だけなんだから……お互いに遠慮しないでいようよ……ね……?」

「……。うん……んだない。……なあ、さーや?」

 ミサヲは私の身体から離れて暗い顔で喋り出す。何事かと思って呆けたままミサヲの姿を見ていると、彼女はどこか居心地が悪そうな素振りを見せて自らの思いを語っていくのだった。

「早速で悪ぃけんちょ、今日も一緒に出かけて欲しいんだ……この通り!」

「で、出かける……? それは構わないけど……どこに?」

「……。……はて?」

「……はあ?」

 支離滅裂とした言葉に呆れて思わず声をあげる。目的もはっきりとせずにそんな提案などあるかと考えているとミサヲはまた言葉を紡ぎ始めた。

「いやな、さーやが言った通り一緒に居られるのも今日までだけだべ。……思い出したことの中さ、ミサの家族がまだ居っがもしんねぇって分かったべよ? だがら……まだミサがあの世で見てねえおっ母に、逢いたくて、ない。……それに、ミサは一人娘だがら兄弟が居ねえんだ。……言葉が通じるのは、頼れるのはさーやだけだ! 急にそだごと言わっちぇも困るのも百も承知だ! だけんちょ、せめて――」

「……ミサ」

 何度も私に対して頭を下げるミサヲに違和感を憶えて言葉で彼女を引き止める。するとミサヲは眉を下げ私の言葉を待っているようにしながら黙っていたのである。

 どうしてミサヲはこんなにも言い訳を並べるのか理解が出来ない。さっき、あんなに許し合おうと言ったばかりなのに、共に肩を持ち合おうと言ったばかりではないか。それなのにミサヲから今のように言われてしまうともどかしくてたまらない。だから私はミサヲにもう一度言い聞かせるのだ――

「遠慮しない。……さっき言ったばかりでしょ?」

「……! さーや!」

「任せてよ。ミサのために約に立てるのならそのくらいお安い御用だってば! ……もしかしてはっきりと場所を言わなかったのはそのせい? お母さんの居場所が分からないから……」

「……。んだ。死んでねえのは間違いねえ。けんちょミサは神様仏様でねえがらその人がどごで何してっが分かんねえんだない。……何か、手がかりがあれば……」

 鳥のさえずりが聞こえ次第に賑やかになっていく様子が窓越しで伝わってくる。けれど今の私たちにはその様子について話し合うことはない。なぜなら私とミサヲは、彼女の母親の居場所に宛がないか考えるのに夢中だからである。

「……うーん、ううーん……! まさかここまで長生きしてっど思わなんだなぁ……。あやまっだなぁ……。いやでもミサの夢の中に出てきたからな、そこまでして逢えねがったってのもねえべ」

「……。幽霊でも夢って見れるんだ?」

「ん? あたりめぇだべ? さーや、ミサはないっづも夢でさーやを見てんだぞい? んもう、寝ても覚めでもさーやのことばっかなんだない……かああ、胸がかがらしぃっだらべえべ!」

「へ、へえ……そーなんだ……」

 口では素っ気ない言葉が出てしまったが内心は踊りだす勢いである。

「ところが今日に限って見たのはおっ母だったない。何か、ミサに言ってくっちだと思うんだわ」

「……逢いたいってことかな」

「……多分ない。そら我が娘が十七で死んだわけだからさぞ無念だったべで……。ミサだって嫌だったもの……」

「ミサ……」

「だけんちょ後半からミサの頭を引っ叩がっちぇだのはおもしゃぐねがったな! ったぐ、実のおっ母のやっごどであんめえべな!」

「……。それはミサの言動に原因があるんじゃ……」

 きっとミサヲは生前もこんな調子の性格であったのだろう。仮に私に子どもが居てミサヲのような娘を持っておりそんな発言をし出したら鉄拳制裁をしないにしても注意するものだろう。むしろそれが教育というものと思うのだが……。

「うーん……でもさ、これと言って思い当たる節なんてないよね……」

「……んだない。あー、困ったなぁ……」

 ミサヲはそう言いながら自らの身体を放り投げて寝転がる。大の字になって転がる彼女は何も隠す素振りを見せることなくめくり上がったワンピースの裾も気にしていない。節操ない様子とはまさにこのことである。

「……もうこんな時間か……。そろそろ顔を洗ってこようかな。よいしょ……」

 時計を見てみると先ほどの時刻から十五分ほどが経過していた。いつの間にかこんなにも時間が過ぎてしまっていたのかと私は腰をあげた。

「んだない……ボーっとしているよっかその方がいいない」

 荷物の中から着替えを取り出して寝間着から普段着へと着替え始める。その時にミサヲがまた鼻の下を伸ばしてこちらを見てくるものと思っていたが、今はやはりそういう気分ではないのだろう。彼女はまた腕を組んで考え込んでいた。

「……さ、用意できたよ。行こ?」

「あ……んだな、やべか……って、ああーっ!」

「わっ……! な、何……!? まさか、何か思い出したの!?」

「さーや! なんで着替えるのに言わねえんだで! さーやの裸を見ねえと一日が始まんねえんだぞい!」

「……まったく……! 裸なんて昨日見たでしょ……! ちょっとでも期待した私がバカだった……!」

「いーやなんねえ! 昨日は昨日! 今日は今日だべ!」

 そう言いながらミサヲは得意気に意見を述べる。いくらミサヲでもと同情したのが間違いだったようだ。

「とにかく、今はダメだからね! お母さんに逢いたいんでしょ? だったら今からえっちな考えは禁止!」

「ぐっ……!? ……た、確かにほうがもわがんねえ……。分かっだ……今度こそ自重する……」

 ミサヲは自身の二つの眉を一つにしてそれらをこんがらがりそうな勢いで眉間に皺を寄せる。果たしてどれほど持つのだろうか……。

 使っていた布団を畳み、今のところ静かなミサヲを連れて部屋を後にする。朝早いということもあって家の周りは静かであるが家の中は賑やかになり始めていた。台所からは母と祖母が朝食の支度をしている音や、祖父の部屋からは早朝のニュースの音声と思われる雑音混じりの声が聞こえてくる。時折聞こえる祖父のくしゃみの音と相まって生活する音がそれらには存在していた。

「さてと……さっさと顔を洗っちゃおうっと」

「……おっ……。さーや、大助くんが来たぞい」

 前髪をあげて蛇口を捻ろうとした時にミサヲからそう呼びかけられ私の注意がその方へと向く。すると私の視線にはとても眠たそうな、上下下着姿の父の姿があったのである。

「大助くん……年頃の娘の前だべ、そだ格好はねえべした……」

「本当だよ……! おとーさん?」

「……んあ、ああ……紗綾か……おはよ……」

「おはよ。もう、服を着てきてっていつも言ってるでしょ! お母さんにも言われてるくせに……」

「あは、ごめんって……。いやさ暑くってさぁ……酔っ払ってそのまま寝ちゃったもんだから着替えるのが面倒で……。それにしても紗綾今日は早いね? いつもなら昼近くまで寝てることもあるのに」

「ま、まあね……」

「……なはは。この父あってこの娘あり……ってが? なんだ、さーやもあれこれ言う割にはだらしねえ所もあんだない?」

 茶化すようにミサヲは私たちの会話に口を挟む。横目でミサヲの様子を伺うと彼女は小さな口に手を当ててクスクスと笑っていた。

「紗綾、隣いい?」

「うん、いいよ……って! うわっ、お父さんお酒臭ッ……!」

「あー……ごめんね、昨夜はつい飲み過ぎちゃって……悪い悪い……」

 父が屈んで水道に顔を寄せると私たちの距離は近付いて、その時に父から漂う酒の強い臭いに思わず鼻をつまむ。

 昨日は父の地元に住んでいる友人たちが集まって小さな宴会を開いていた。それというのも思い出話に花を咲かせるだけではなく、近況や今日行われる盆踊りについて話し合っていたようだ。父も地元に帰ってきては何かと催事に呼ばれることが多く、帰省しても休んだ気がしないと笑っていたのを聞いたことがある。それ故父は眠たそうな顔のままひげ剃りを始めたのだった。

「いやいや、大助くんも大変だない。……しかし、昨夜宴会してた割にはそんなにうっつぁしぐねがったな? ミサの頃はどんちゃん騒ぎもいいどごで、頭数足んにぃがらっで良っぐ麻雀に呼ばらっちぇだなぁ……」

「えっ……ミサ、麻雀できるの?」

「うん? できっぞい? これがな、幼稚園の頃から駆り出さっちぇぶっでだもんだがら実力はお墨付きだぞい? だけんちょ酔っぱらい相手だっだがらよぉ。これがまあ、イカサマ・順番飛ばし・上手くいかねえ時にゃ山なんかゲンコツでぼっこしでだっげな……。そう考えっど、大助くんらの世代は大人しいぞない? 意地汚え野郎の中に混じって対局を通してミサは現代を生きる人間たちの海千山千っつうのを学んでしまっだ訳なんだない……。そんなもんよっか大助くんらの方がううんと健全的でいいない」

 ミサヲは何度も頷いて、口を結んで難しい表情を見せていた。ミサヲもその出来事にはあまりいい思い出が無いようでその時の無法ぶりに物申している。

 その話を聞いていると今では考えられない様なことばかりが繰り広げられているような気がする。良い意味で捉えれば自由奔放で皆の懐が大きかったと解釈出来るものだが、今の時代の感覚で考えてミサヲが遭った事実を話せば不届き千万、野蛮などと批判を浴びることだろう。何かと世間の目が厳しい今の世の中、どんな批判が飛んでくるのか容易に想像が出来るというものだ。

 だが確かに、幼稚園児のような幼い子に博打事を憶えさせるのはどうなのだろうと思ってしまうものである。

「紗綾、今日はどこかに出かけるの?」

「え? いや……今のところはないよ。もしかしたら出かけるかもしれないけど……」

「そっか。いやさ、今日は盆踊りでしょ? だからお父さんとお母さんは設営に出かけなくちゃいけなくなってさ。もし時宮の街に行くんだったら別な手段で行ってもらおうかなって思ったんだ。紗綾も夜お祭りに行くでしょ?」

 父はひげ剃りの電源を切って、鏡を見ながら自らの顎を擦って私に今日の予定を述べていく。

「うん。……でもそっか。時宮にでも行こうかと思ってたし。ありがと、お父さん」

「……そうすっと交通手段は自転車のみか。いやでも跳ねて歩くよっかマシか」

「ごめんごめん。だけど……時宮までここから車で三十分位かかるしなぁ……まあでも自転車とかがあれば大丈夫でしょ」

「たまには運動をしとかないと。……お父さんもそろそろ何か始めたら?」

「のわ! さ、紗綾! 横腹をつままないでくれよ……いてて……!」

 擽ったそうな父の様子を尻目に彼の腹を二本の指で摘んでみる。柔らかな肉が厚いゴムを引っ張った時のように伸びて妙な柔らかさがあるのだ。

 気のせいかもしれないが去年よりも肉の厚みが増しているような気がしないでもない。そんなことを考えていると私が父の腹を触る場所と同じ部分から自らの腹部に触られている感覚がしてちらりと見てみる。するとミサヲは大変興味深そうな眼差しで私の腹の肉をつまんでいた。

「……! ちょ……!」

「なはは……! 油断大敵だぞさーや? パッと見た感じは細ぇけんちょプルプルしてんだなぁ……! めんごいごと!」

「……くう、最近食べすぎてるって解ってるよ……!」

「あ……。紗綾、そう言えばね」

 笑いが治まってきた父はふと思い出した口調で私に声をかける。

「昨日話し合ってた中で偶然に話題に上がったんだよね――ヒサノさんのことがさ」

「……! えっ……!」

「盆踊りにまつわる話をしていたら自然と出てきたんだ。盆踊りっていったら久野屋って言うくらい盛り上げてたし。いやあ、その話をしたら皆して懐かしいって言ってたっけ。海藏さんが亡くなってから久野屋さんも引っ越しちゃったから誰にも知られて居なかったみたいでね、聞いた噂話だとヒサノさんは今もお元気だそうだよ」

「……! おっ母……!」

 父が腕を組みながら頷いている様子を見ながら私たちはそれぞれの瞳を見つめる。まるで合図をしたかのように私たちの頷くタイミングも何もかもぴったりで、頬が緩くなっている感覚から察するに、私は今目の前にいる歯を見せて笑うミサヲと同じ表情をしていることだろう。何にせよ、行き詰まっていた願いが叶いそうになっているのだ。そうとなれば喜ばない訳にはいかない。

「今年で百歳になるんだって。それでもヒサノさんはしっかりしてるらしくて、時宮の西村総合の敷地内にある老人ホームに居るんだってね。親族の人たちは県外にいるらしいけどたまに来てるみたいってさ。ヒサノさん本人は遠いし来るのも大変だから大丈夫って言ってるみたいだけど、ね」

「おお……! ……って、あれ? そういえば西村総合ってどこにあったっけ……」

「紗綾が小さい時にこっちに来て熱を出したことがあって、その時の他にも何度かお世話になったよ。ほら、紗綾が持って帰りたいってずっと言ってた入り口に大きいウサギのある所……覚えてる?」

「……。ああ! 駅裏の……!」

 父にそう言われて記憶を辿ってみると、父の言う西村総合病院・付属医療大学校、通称西村総合の場所を思い出す。時宮駅のすぐ裏に存在していて、この辺りでは一番大きな病院であり医療機関である。その規模はかなり大きく、病院のある敷地内に立体駐車場があるほどだ。父の話だと、その広い敷地の中にある老人ホームにミサヲの母は暮らしているようだ。

 入り口にあった大きなウサギのぬいぐるみとはその病院のキャラクターであるようで、Nというシャツを来たキャラクターをふと思い出す。確かに、小さい頃の私は自らの倍以上あるその大きさに嬉しくなって連れていきたいと言っていた気がする。

「なはは! 西村総合なんて久しぶりに聞いたな! 懐かしいぞなぁ……。……だけんちょ、そんじは……!」

「……ってことは、じゃあ……」

 確信を持ってミサヲの方を向く。するとミサヲはまた私の目を真っ直ぐ見て小さく頷いた。

「お父さん! タオル貸して!」

「えっ……はい……」

 蛇口を全開にして激流を自らの顔に塗りたくるようにして起きたばかりの顔を叩き起こす。いや、既に目は覚め思考もはっきりとしているのだ。目覚めではなく気合を入れ直す意味で私は素早く冷たい水を顔に被った。

「……ふがふが……よし! お父さん、タオル返すね! ちょっと汗臭かったけどありがとう!」

「……。ひ、久しぶりに紗綾が僕の持ち物を使ってくれた……! ……ああ、今日もいい天気だなぁ!」

 そうして私たちは、父・大助のとても機嫌の良さそうな声を背中越しに聞きながら出かける準備をするために足早で自室へと向かっていくのだった。



「やっだなさーや! これでおっ母に……まだ生ぎでるおっ母に逢えんだない……!」

「うん! ……それじゃ、前もって行くルートを考えよう!」

「作戦会議だな! よしきた!」

 扉を閉めて私たちは一緒に座り込む。本当ならば大きくて操作のし易いパソコンを使えれば一番いいのだが、生憎ここへは持ってきていない。ならばと、私は携帯電話を取り出した。

「えっと……西村、総合病院……っと」

「……。はああ……今の携帯電話っちゃ進んでんだなぁ……。地図まで見れんのかよ……。ここまでくっどはぁ電話でねえない。用途は違ぇけんちょポケコンみてえだわ」

ポケコン……? なにそれ?」

「あれま! 分かんねえが……! まあ、わげのおっとぉは新しもの好きでな家さあったんだけんちょ、世間一般にはごく一部にしか浸透してねがったし、知んにぃぐでも不思議でねえか」

 何やら聞き慣れない単語を言っているが想像できずに西村総合の位置を調べ続ける。文字を入力し目的の場所が表示される。それによると車では三十二分、歩きでは四時間半ほど掛かるらしい。

「うーん……四時間半も歩くなんて苦行じゃん……。自転車だとそこまで時間は掛からないだろうけど……」

「なはは! さーや、いいことを教えっがい?」

 ミサヲはそう言って私の腕を握る。その時のミサヲの表情はとても嬉しそうで得意気にしていたのである。

「西村総合は駅裏にあっがら汽車で行った方が早いんだわ。駅裏を出て側にある道路を渡ればすぐだべし、善ちゃんげから行けば近道もあっがらその方がいいばい」

「え!? この辺に駅なんてあったっけ……って、ああ……。そう言えば踏切が途中にあるね」

 どうしても駅という単語を聞くと自宅近くにあるようなホームが数本ある駅を想像してしまうが、地方となると無人駅というものもあるはずだ。

「んだ! んでその駅の……。……? ……あれ……ホレ……」

「?」

「……。……あれぇ!? え、駅の名前をど忘れしちまっただな! かああ、ミサとしたことが!」

 何を言い出すのかと思って聞き入っていた身体がずれて傾く。ミサヲは尚も頭を抱え目を白黒させていた。

「あああ……! 何だっけがなぁ!? 昔はあだに遊んで歩ってたがら忘れるわけねぇっで思ってだけんちょ、それも遠の昔の記憶か……! あやまっだなぁ、何だっけ……!」

「ま、まあまあ……。駅に行くにしろ場所さえ分かれば……あ、でも日に何本来るのか分からないと時間を持て余しちゃうか」

「ううー! こ、ここまで出てんのに……! かがらしぃなぁ! あれなんだ、うんと浅ましい強盗っつうか、ギャングつうか……そんな人らが言いそうなセリフなんだよなぁ……」

「ご、強盗……? それにギャングって……」

 ミサヲはそう言いながら自らの喉仏辺りを叩きながらその場を回り始める。こちらからすれば名前など後から見ればいいと思うのだが、ミサヲはそうはいかないようだ。しかし、強盗やギャングが言いそうなセリフの駅名など非常に物騒であるが……。

「……ダメだ! さーや! 持ち前の演技力で強盗の役をやってくんよ! はい、キュー!」

「は!? ご、強盗なんてやったことないよ!」

「あたりめぇだべ! 強盗なんてしたことあるっつったほうが大変だべ! 想像で、はいはい!」

 そんなことを急に言われても困る。とは言えミサヲが頼ってくれているのだ、ここで拒む訳にはいかない。

「え、えっと……! か、金を出しやがれ! 首を飛ばされてぇのかバカ野郎!」

「……そだにリアリティを求めてねえよ……」

「急に冷静にならないでよ……! こうじゃないの……?」

「んだな……包丁でなくて銃(チャカ)の方がいいな!」

「そういう問題なの……? それじゃあ……兄弟、物々交換だ。金と交換するものが鉛玉になる前にその金をこっちに寄越しな!」

 前に映画で見たことのあるセリフをそのまま言ってポーズも取ってみる。するとミサヲの私を見つめる眼は冷たくも笑っていた。

「な、何よその顔は……!」

「……いんや? 悪役が似合うなって思ってよぉ」

「くう……! こ、こうでもないの……?」

「んだない……。もっとこう、金に貪欲で切羽詰った感じで、ハイ!」

「……楽しんでない?」

「……んなわけねえべ! さあ、キュー!」

 何とも注文の多いことだ。こうしている間にも時間は過ぎていくというのに私たちは他愛のないことをして言い合う。しかしそれらは不思議と気分が乗ってきてどんな風に言おうと次々セリフが思い浮かんでくるのだ。

 とは言えいつまでもこうしていては埒が明かない。そう思って私はこれで最後にしようと言う気持ちで口を動かしていくのだった。

「切羽詰まった感じ……ね。……こ、この野郎! やりやがったな! こうなったら後には引けねぇ……! おい――有り金全部出しやがれチキショウ!」

「なははっ! 何だって迫真の演技だなさーやは! ああ、おかしぐで涙出てき……ん? ありがね……?」

 そう言ってミサヲは硬直して黙り込む。何をしているのだろうと思ってミサヲを覗き込むと彼女は突然大声とともに跳ね上がったのであった。

「んだ! アリガネだ! んだわ、さっすがさーや! いよっ、この極悪女!」

「聞き捨てならないことを言わないでよ……!? ああ、びっくりした……」

「いやあスッキリだなぁ。ほだほだ、アリガネ駅だわ。そこさ行ってみっぺ」

「……適当に言ってない?」

「本当だぞ! そいつで調べてみでがら物を言っでくんよな?」

 正直疑いは晴れないけれどミサヲがこれほど自信満々に言っているのだ、間違いではないのだろう。

「確かな、一時間の間に来る汽車は一本だけだべ。ほんで来るとすれば三十分から四十五分の間。それを逃すと一時間待たなんねぇんだない」

 都心とは違い電車の量も違ってくるものだ。それを思うとミサヲのその助言がとても心強い。

「そうすると今の時間じゃ……もう出たかもしれないんだね」

「ほだない。んだがら……今は七時をちっと過ぎたぐれぇだがら……準備しで、移動時間も考えっど……余裕に時間を取っで八時二十分には駅さ行っでなんねぇない」

「ここから駅までは結構あるの?」

「広い道を通れば、ない。だけんちょミサらは裏道を使って行くべで。ほれ、善ちゃんげがらはそっちがら行っだ方が早いっつったべ? 善ちゃんげを西さ進んで太郎本坂を登っで、分かれ道を左さ進めば後は一本道、細ぇ峠道を通ることになんない」

 ミサヲは身体の向きを変えながらその道中について説明していく。話を聞く限りだと体力が要りそうな道のりである。

「なに、ミサがついてんだ、さすけねえぞい? 道はほぼ一直線だがら気ぃ揉むごどねえよ」

「うん、ありがとう。……ね、ミサ」

 目の前で私に教えてくれているミサヲの姿が頼もしくて胸の奥が熱くなってくる。抱きしめてあげたいけれど生憎そうはいかない。それでも私は構わないと、二本の腕はミサヲの方に向けられ声色は自然とミサヲを欲しがっているように小さくもはっきりとしたもので彼女のことを呼ぶ。するとミサヲは瞼を笑顔に隠して正座をしている私の膝に向かい合うようにして乗ってきたのであった、。

「なはは、なじょした? 急に恋しぐなっちまっだが?」

「ふふ……うん。それもあるけど、ミサの役にようやくなれるのかなって思ったら、嬉しくなっちゃって……」

「んま。さーやはいっつもミサを支えてくれでっつぉい? さーや、自分を卑下にしてなんねぇぞ?」

「そうじゃないよ。忘れ去っていたミサの記憶を一緒に思い出していることが、嬉しいの。ミサはさ、私と再会して頭が冴えるようになったって言ったじゃない? それが、凄く嬉しくって……でもミサにしてあげられる私の出来ることって限られてるから……数少ないミサのために出来ることができる、それだけで私は胸がいっぱいになっちゃうよ」

「……さーや……」

 私の言葉を聞くなりミサヲは頬を染めて黙ったまま私の瞳を見つめ続ける。こちらからも見えるミサヲの瞳には様々な感情が渦巻いて揺れていた。

「……なはは、なんだミサも胸がジンとしてくんない。さーやは……確かに大助くんの娘だわ。誰かさ手を差し伸べるその優しさは、おとっつぁま譲りだない――」

 手を握り引いて、私の顎に手を置きミサヲは自らの方へと私の顔を近付けさせる。どこか涙ぐんだようなその声色を聞いていると、昨日知った驚きと悲しみで忘れていたミサヲに対する私のときめきが再び動き出して唇が震える。身体同士が密着して、ミサヲからの吐息が感じてしまいそうな錯覚に陥りそうなほど、私たちの間で取り巻く吐息は熱く同じ感情を漂わせていた。

 ミサヲは、間近で私の顔を見つめながら瞬きを何度も繰り返し、それと同時にミサヲは私の首に腕を回して額同士は私たちの触れ合うだけの僅かな抱擁に包まれる。次第にミサヲの瞬きもゆっくりになっていきそのうち閉じてしまいそうだ。その瞼が閉じた先に何が起きるのか、それは考えるまでもなく分かりやすいことだ。ミサヲが今、私と同じ気持ちで居てくれているのなら――

「……んむっ……ミサ……」

「さーや……ん、あむ……ちゅっ……! んはっ……さーや……んんっ……」

 優しく触れられた唇はこちらに次第に力強く押し寄せてくる。彼女の小さく柔らかなそれは何度もうねって私の唇を這うように触れ合ってくるのだ。その様子は何度も抱きしめてくれているようで、体温を確かめたさそうにしているその動きはミサヲの気持ちさえも表しているようである。

 私の閉じた唇はミサヲの小さい舌でこじ開けられ私の舌先には柔らかい感触が乗ってくる。この小さい舌にミサヲの感覚が、体温が、ミサヲの味があったと想像するだけでも頭の上は熱くなるばかりだ。ふと、今のミサヲはどんな顔をしているのだろうと思い恐る恐る自らの瞼を徐ろに開くと、彼女の片瞼と先になびく睫毛が見えてきた。その部分だけでも綺麗だなと思えるものだ。そんなことを考えているとミサヲの瞼も開き始め、やがて互いの瞳の奥を覗き込むように見つめ合う。程なくして見られていることに恥ずかしさを憶えて鼻息は急に荒くなる。するとミサヲは唇を離して、突然鼻に噛み付いてきたのである。

「!? わっ……わわっ……」

「……なはは……! さーや、キス顔を覗こうなんざ悪趣味だべ」

「う……だ、だって……どんな顔をしてるのか見てみたかったんだもん……」

「……。それはミサも同じだな。だがらミサも恐る恐る開いたんだなこれが。ああ、なんだまず揃っで変態プレイを所望とは……あやまっちまうない?」

 ミサヲはそう言って満面の笑みを浮かべる。しかし私はその笑みを長く見つめることなく再び視界いっぱいにミサヲの顔で埋め尽くされる。そこから先はミサヲに唇を奪われ続け、私の身体は彼女のなすがままとなった。

 しかし、何度も嬉しそうなミサヲの声に、小さく「宜しくない、さーや……」という言葉に私はいつしか気にしなくなってしまったのであった。



 朝食を食べ終え、昨夜の件もあって母に許可を得てから私とミサヲは祖父の家の玄関に肩を並べて立っていた。私たちは改めて気持ちを入れ直す。今からすることは、限られた時間の中で出来ることを行って各々の記憶に焼き付けるということだ。

 ポケットに入れた携帯電話を取り出して時間を確認する。現在の時刻は七時五十分に変わったところだ。私たちの意気の強さというのは必要最低限の荷物を持ち空を仰ぐ様子も深呼吸をするタイミングも音を聞く限りだとミサヲとぴったりになるほどである。

「……さーや、こう言っちゃアレだべけど、さーやのお母っちゃまはちっと過保護でねえ? 確かに娘が可愛いのは解っげども……」

「ま、まあ……そういう世相と言えばそれまでなんだけどね……。私が住んでる場所って何かと物騒な事件が多くって……。お母さん、元々心配症な所があるから尚更なのかも」

「はああ! なるほど、んじゃしゃあねえない! ……だけんちょ出かけるっつう単語を聞いた時のあの凍でつく空気を作り出すのは中々のもんだべで……」

「……その意見には賛成……」

 食べ終えた食器を流し台に持っていきながら母に話題を切り出した場面を思い出す。母のややつり目で黒目の大きな瞳は彼女自身の気に障る事となると急に鋭さを醸し出して目で圧倒されるという言葉が似合うほど物々しい雰囲気を実の娘に向けたのだ。もちろん母は理由があってのことでその視線を向けたわけであり、昨日のように遅くまで出歩くつもりなのかと私を疑っていたに違いない。

 しかし母も何かを察したのかその表情は少しした後消えてなくなり「気をつけて行くのよ」とだけ言って深い詮索は免れた。

 しかしながら、私が自らの顔を見た時に目は母親譲りだと思っていたが気持ちによってあんなにも冷たい刃物のような表情をしてしまうのかと思うと、今後の表情の作り方を考えなくてはと思ってしまう。ミサヲなんて母のその表情を見るなり小さな悲鳴をあげて私たちが話し終えるまで背後で様子を伺っていたのだから、余程のことであるのだろう。

「よし……。自転車も問題ないし準備はいいよ。さあ、後ろに乗って!」

「ん! さーや、頼むない!」

 自転車に跨りミサヲに声を掛けると、彼女は満面の笑みを浮かべて私の声に頷く。ミサヲは自転車に飛び乗り私の腰に腕を回す。これで全ての準備が整った。

「よっこら……しょ……。それで? 神社とは反対方向に行けばいいんだよね?」

「んだ。この通りをまっつぐ行っで、キツいカーブがあっがら気を付けながらその先の――」

「……もしかして、急勾配な坂を登るの……!?」

「なんだ知っでんのが! ほだよ、それが太郎本坂なんだわ。なあに、チャリンコだら勢い付けりゃさすけねえべ!」

 ミサヲが言ってくれた教えを聞いてつい溜め息を漏らしてしまう。またしても、昨日私の脚が攣りそうになったあの高い坂の頂きを目指さなくてはならないのかと思うと、自らの額を引っ叩きたくなってしまうものだ。

「なんだの、そだに嫌な顔をしなくでもいいべした……」

「……ごめん、私運動って苦手でさ……」

「なんだなんだ! 坂を駆け上がるだけだべ! なに、コケそうになっだら尻を引っ叩いでくれっがら! こんな風に――!」

 ミサヲはそう言ってサドルに乗った私の尻を思い切り叩く。それも力加減もないので尻からは刺すような痛みが走ってくる。

「――った! いたたっ! ちょ、ちょっと!?」

「……! おおお……!」

「やっ……!? コ、コラ! そんなに何度も――ふわっ!?」

「……のほほ……! なんだ、嫌がっでる割にゃ速度が上がんな! かああ、この小ぶりなケツが増々めんごぐなんな――どわっ!?」

 反省するどころかエスカレートしていく行いに堪忍ならなくなって自転車を急停止させる。全く、言わないと解らないのだろうか……!?

「……」

「ハッ――! ミ、ミサが悪がっだで! だ、だがらよぉ、唸りながら睨まねえでくんよで……! さーや、お母っちゃまとおんなじその心臓をブッ刺すような視線を送んねぇでけろぉ……! おっがねえべしたぁ……!」

「だったら余計なことしないの。今度やったら自転車ごと田んぼにワッショイさせるからね?」

「んな! ワッショイすんのは御神輿と嫁様で十分だべ……!? さーやぁ……!」

 全くもって手のかかることだ。とは言え手を合わせて懇願しているミサヲを見て尚も制裁する気にはならずミサヲに早く乗るように促す。するとミサヲは大きな声で返事をして震えながら素早く自転車に乗ってきて、それを見てから私は再び自転車を走らせた。

「さて……。坂を登り切ったら分かれ道があったけど、それを左で良いんだよね?」

「へえ! 左様で!」

「……。後は峠を下るんだったよね? 下ったらその……アリガネ駅はすぐ見えるの?」

「へえ! 左様でっ!」

「……。……あ、えっちな本がいっぱい落ちてる」

「へえ! 左様で……左様でごぜぇますか!?」

「……お願いだから普通に……喋って……よ……あははっ……!」

 可笑しな言動のミサヲに、相変わらずのミサヲの様子に自転車を運転しながら笑い声が出てくる。

 きっとさっきの私の怒りに慄いて彼女をそうさせたのだと思うが、声をあげて笑う私の様子につられてミサヲも笑い出す。それに合わせるようにミサヲは、私の腰に回す腕の力を一層強めてきたのだった。そのミサヲの反応に嬉しくなっているのも束の間のことで、私たちは最初の難関というべき、昨日も訪れた太郎本坂へと早々に到着してしまったのであった。

「……っとと……。い、行くよ……!」

 昨日の体験もあって少々気の引ける物があったが、ここまで来たのなら是が非でも押し通す他ない。ミサヲのことを思えば、彼女のためになるのならば痛くも痒くもない。そんな不思議な力に後押しされて気合を込めた声とともにミサヲを乗せた自転車は坂を登り始めるのだった。

「んっ……しょ……! ぬぐぐ……!」

「……な、なんだなんだ……大分ふらついてっつぉよ……! さーや、訳ねえのが……!」

「だっ……だい……じょぶっ……」

 ミサヲは自転車に乗っているものの重量があるわけでもないし感じている訳でもない。けれど心なしかペダルを漕ぐ脚はやけに重くてまたしても前のめりになって立ち漕ぎになる。

 もしかしたらこれは歩いたほうが早いのではないか……いや、後先を考えるとこの方が良いのかもしれない。……けれでも、やっぱり――

「……! わっ……えっ……」

 苦手である運動でまともな思考が蝕まれ虚ろになっていると、その煮詰まる考えを押し流すかのように自転車がぐんと前に押し出されてつい小さく悲鳴を出す。何が起きたのだろうと振り向いてみると――そこには荷台に座っていたミサヲの姿はなく、彼女は自転車の後ろからか細い二本の腕を使って自転車を押していたのであった。

「……なはは! ミサばっかり楽してもしゃあねえがらない! ミサも、さーやのために全裸さなる勢いで一肌脱ぐぞい!」

「……っ……。……ふふ、ありがと!」

 ミサヲは、彼女の意志があればこの世の物に触れることが出来るのだそうで、私に触れてくることも、こうやって自転車を後ろから押してくれることも出来ている。ミサヲはそうしてくれるということは、既に他界した身でありながらも興味を持って勧んで行動に移してくれているのだ。

 それを想うと、私たちはなんて奇妙な運命で結ばれて出会ったのだろうと、つくづく思い知らされる。一方は生きている人で、もう片方は大分昔に死んでしまった人。この世に溢れかえる普通という観点から見れば出会うことも感じ合うことも、それらは生前に関わらなければ有り得ることではないのに私たちは生きていた時代が違うけれどこうして共に行動して、想い合っている。今こうして、自転車を漕ぐ私を手助けしようとミサヲは自ら手伝うと行動で示してくれた。出会った当初とは違う私たちの変化だけでも嬉しくなると言うのに、今にも弾けてしまいそうなミサヲに対する気持ちを私は胸の中で無理に押し込めた。

 何故ならそうしないと収拾がつかないのだ。身体を動かしているにしても高鳴り続けるこの鼓動も辛さで引き攣った頬が急に緩んでくることも、表情につい出てしまうくらいに溢れて来てしまっているのだ。これが押し込めていないのなら既に自転車を道路に転がしていることだろう。

 ……なんて嬉しい苦しみだろうか。ハンドルを握る手のひらも汗でよく滑るというものだ。

「おっ……! さーや、もうちっとだぞ!」

 その声に顔をあげると目の前には、坂の頂に聳えるあのカーブミラーが見えてきた。

 心なしか、今回は早く登ってきている様な気がする。今回はミサヲが後ろから押してくれているということもあるけれど、それにしても今は昨日のように脚が鉛のように重くならずに登る前と変わらない気がするのだ。それに心持ちも軽い気がする――これはやはり、ミサヲと居るからなのか……――

「……! つ、ついた……! はぁ、ふう……! ミ、ミサ……!」

「なはは……! よぐ頑張っだない! 苦手っつだけども、やっぱしミサのさーやだない!」

 私が息を切らしながらミサヲの方に視線を送ると彼女はウィンクをしながら私に労いの言葉を掛けてきてくれる。そして彼女は嬉しそうな面持ちで私に近付き抱きついてくる。その時にミサヲは自転車にまたがる私の腰に腕を回して心の底から喜んでくれているように跳ね上がりながら笑ってくれた。

 そんなミサヲの様子に私の鼓動はとくんと跳ねて、やはりと彼女の姿を見ながら確認するのだ――

「――やっぱり、ミサじゃないとダメなんだな……私……。えへへっ……」

「んあ? 何か言っだが?」

「……っ! ん、んーん! 何でもないっ!」

 またしても心の声が出てしまって口を結ぶ。今回の声はミサヲには聞こえていなかったようで、彼女は首をかしげていた。

「さて。さーや、後は下り坂だぞい。だけんちょ、細ぇ下り坂だがんない、車といっきゃあったら一発でお陀仏だべ……もういっぺん言うけんちょゆっくり、ない!」

 額から溢れ出た汗を拭っていると、ミサヲはそう言いながら汗で張り付いた髪をかき分けてくれる。彼女からの助言を聞いて、私は脚の先までミサヲの言いつけに従おうと、強めに地面を蹴って自転車を再び木々が作り出したトンネルの中へと進んでいくのだった。

「こっちに行くんだよね。……こうしてみると長い下り坂だね……」

「まあ、腐っても峠だがんない。ここらは山の中腹に作らっちゃ集落だがら行き来するにも強制的に山登りしなんねぇんだない」

 自転車をゆっくり前に進めながらそんなやり取りを交わす。前輪が下に伸びている道路に乗ると徐々にスピードを増してこちらにぶつかる風が強くなっていく。

 今のところ周りの景色は下り坂に入る前と同じで木々のトンネルが遠くまで続いている。途中に緩やかなカーブがあってそれまでは何もなかった崖の縁にようやくガードレールが現れた。それと同時に林だった外側が抜けて鮮やかな緑の風景が見え始めたのだった。

「わ……結構高い場所だったんだねじいちゃんの家がある所って……。田んぼが小さく見えるよ」

「んだなぁ。昔はここしか道がなかったがら何とも思わながったけんちょも新しぐ道が出来たがら尚更そう思うない」

 下っているから目の前に広がる景色の高さは変わってくるけれど、それでもまだ電線を下回っていない。時々私の視界に鷹が大きな羽根を広げて宙を舞っている姿が映り込む。

 普段鷹など鳥たちを上から見るということはそうない話だ。それにこんなにも低く飛んでいるということにも私からすれば新鮮に映り込んでくる。人を恐れていないからなのか、それともこの場所で高く飛んでいては獲物にありつけないからなのか。疑問は深まるばかりだ。

「……よしよし……。……ああーっ!? さーや! 前、まえーっ!」

「――へっ……!? きゃ……!?」

 ミサヲの大きな声に驚いて前を向く。すると、私の目に飛び込んできたのは――急カーブと苔がこびりついた白いガードレールであった……!

 この距離で、この速度で進んでいけば間違いなく衝突してしまう。このまま私がガードレールに突っ込んでしまった時を想像すると、私の周りを取り巻く時間が急に遅くなる。私の身体もろとも激突しひしゃげた自転車とともに道路に倒れ込んでしまうのか、それとも私だけ自転車から放り出されて崖の下へ転落してしまうのか。どちらにせよ無事に済む訳はない。様々な見解があるにせよ、どうやっても痛みを免れないと悟った時、私の頬には冷たい汗がすっと伝っていった。

 ――すると、私の腰は後ろから急に締め付けられ身体が傾けられる。その方向はガードレールが見切れた崖の端。それに気付いた私の悲鳴は僅かなものだった。落ちる間際は、こんなにもあっさりと奪われてしまうのか――

「……! うわあああっ……あ……? あ、あれ……?」

 何時まで経っても身体に痛みどころか衝撃すらもやって来ないので恐る恐る瞼を開いてみると、私が運転する自転車は未だに地面を駆け続けていた。

「なはは! 上手いなさーや! 近道大成功だべ!」

 未だに状況を把握しきれていない私を余所にミサヲからは機嫌の良さそうな声が湧き上がる。彼女の言い草から推測すると、この道について何かを知っているのだろう。

「いやな、さっきの道をずっと行けば新しい道さぶっづがんだげんちょ、そうすっと遠回りなんだない。それにつづら折りばっがで疲れっちまうべした。それから駅はこの斜面の真下にあっでない、人が歩くための山道駅まで続いでっがら自転車で行っても大丈夫なんだない」

「そっ……そういうことは早く言ってよ……! もう駄目って……思っちゃったじゃん……!」

「……なはは! さーや。言ったべ、ミサがついてっがんないっでよ! それにな、その崖から落ちろなんつってすんなり行くわけねえべした? マゴマゴしっちまいそうだがらここのことは黙ってたんだない……ま、さーやのおったまげだ様子を見んのも乙なもんだったけんちょな……のほほ……!」

「……。サイテー……!」

 ミサヲはそう言って私の腰に抱きつきながら笑い声をあげる。最後の一言が余計だったけれど、同時に安心感が生まれてくるから不思議なものである。

 そうこうしている内に、踏み均された坂道の傾斜も緩やかになって辺り一面木だった風景もやがて人工的に設けられた物が多くなってくる。そして進む方向には明かりが大きく強くなってくる。きっとあれが出口に違いない。それを思って私は静かにブレーキをかけていくのだった。

「わっ……眩しい……! ……あ、これが駅か……」

 光で視界が少しの間眩んでいたけれど、それはすぐに無くなり風景がはっきりとしてくる。そして目の前にはコンクリートの台に設けられた小さな小屋が立っていた。

「ほい、到着! おつかれさん!」

「な、なかなか力技で進んできたけどかなり早く着いたね。予定してた時間よりも十分も早く来ちゃったよ」

 自転車を降りて時間を確認すると、八時二十分到着を目標としていた時間よりも早く到着した。

 期間は空いていたものの父の実家へはよく来ていたが、父の実家近くに駅があるなんて初めて知った。いつもは父が運転する車で出かけるのでここへ来てこういった体験をするというのもこれまた新鮮なものだ。そんなことを考えているとミサヲは私の名前を呼んでホームの方へ来るように促していた。

「……。本当に蟻鉄(ありがね)駅だ……。こういう字を書くんだね」

「な? 言った通りだべ? ……なんだっげが? あ、有り金全部出しやがれコンチクショウ!」

「……は、恥ずかしいから止めてよ……。微妙に間違ってるし……」

 先ほど自らがやったこととは言えかなり気恥ずかしいことをしてしまったものだ。私の抑制にもミサヲは腰を引きながら私が言ったセリフを言って誂い続ける。

 気を取り直して切符を買うべく自販機の前に財布を持って立つ。自販機の上に掲げられた目的地までの運賃を目を凝らしながら確認して財布の中から代金を取り出す。一瞬二人分を出しそうになったが事実上乗るのは私だけだ。

「それにしても、片道で千円出しておつりが十数円って……結構高くない?」

「ほうが? まあ、一駅間十キロぐれえあっがも分かんねえしない。 こっがら結構な距離あっぞい、時宮まではよ。……それにしてもここも自販機になっちまったんだな。ミサの頃は駅員が居たのに」

 片道の切符が払い出されそれを手に取る。今この時ほどこの紙切れが高価に感じて大事に持っていようと思ったことはない。

「うん、駅数も時間も昔とちっども変わっでねぇ。やっぱし汽車は一時間置きの三十分から四十五分の間。そんで蟻鉄を含めて五駅で時宮。……まあ、頻繁に変わるような土地でねえか」

「それじゃあ、あと十分もしたら電車来るね。それまで座って待ってようか。……ねえ、ミサ?」

 ふと顔を上げた時に見えた線路図に書かれた駅名を見てふと疑問をもつ。ここから時宮駅までの駅は不思議な名前の駅名が連なっている。ここからでは横にふってある文字がぼんやりとしてよく読むことが出来ない。

「ん? なじょした?」

「私ここの人じゃないからよく分からないけど……この次の駅はなんて読むの?」

「ふりがな書いてあっぺした? うおのず、だぞい」

 ふりがなが書いてあると言われても小さな文字が読みづらい。念のためと思って持ってきていた眼鏡を取り出して改めて文字を読んで見る。するとミサヲから驚いた様な声が上がった。

「なんだ、さーや眼鏡掛けてたのが……! ああ、いい……!」

「ど、どうしたの……急ににやけだして……」

「いやな、ミサ眼鏡掛けでる女の子好きでよぉ……! 更に言えばその質素なメタルフレームが一番でなぁ……! いやいや、目の保養だ……」

「……変なフェチ……」

 ミサヲは顔を赤らめて自身の二つの瞼を真っ直ぐにした四本指でぐりぐりとこね回す。

 気を取り直して線路図に視線を向ける。ここより先の駅は全て変わった読み方をする地名ばかりだ。この蟻鉄も然ることながら、この次の駅は森の涙と書いて森涙(うおのず)、時宮の一つ手前の駅は完了する歌と書いて了ノ歌(しきのいで)とある。一捻りも二捻りもあるその土地名は他所からやって来た人間では読むことは出来ないし、父から教えられたこともない。

「ああ、時宮周辺はヘンテコな名前が多いのは確かだない。理由はちゃんとあってない、ここらは昔から「神が恋をした里」っつう異名がある通り、不思議なことがうんとあったんだっでない。ほんでその神様らにまつわる伝説もうんとあっで、んだがら時宮っで名前のつく土地には変わった名前が付いてんだって教えらっちゃな」

「……神様が恋をした里……何だかロマンチックだね……」

「なはは、んだな! ほんでこの蟻鉄や太郎坂もその一つの内なんだない。なんでも、蟻鉄はとある神様が地団駄踏んで山をぼっこしちまっで、それにごせやいだ山の主が無数の岩をぶん投げで騒いだがらなんだとよ。ほして、砕けた黒い岩の破片さえも意思を持っで怒りを顕にし神様さ説教ぶっだんだど。今でもその名残が土手の斜面さ残っでて、それはまるで鉄を被った蟻がうごめいでさぞ恐ろしがっだべな……つうことでそういう話からここにはそんな名前が付いたんだない」

「ええ……。そんなコントみたいな話あるんだ……。なんというか、子どもみたいな神様だね……」

「まあ、八百万の神々つうぐれぇ日本には沢山居んだがら、やや(※一歳から五歳位を主に指す小さな子ども)が居ても不思議でねえべな」

 ミサヲの見解を聞いて千差万別というのもあるだろうと納得して改めてもう一度線路図を見てみる。そこにある名前たちはミサヲが言った通り何かの出来事があって付けられたと思われる名前が並んでいた。こうしてみるとどうしてこんな名前になったのだろうと思いを馳せたくなってくるものだ。どこか一つひとつに物語があって、聞いているだけでも一日が終わってしまいそうなそれらでも一度聞いてみたいと思うものだ。

 一人で暫く眺めていると駅名のある看板の下のベンチからミサヲに名前を呼ばれこっちに来るように促される。彼女に言われたまま座るとミサヲは私の太腿の上に彼女の頭を乗せてきたのだ。

「……ふふっ。どうしたの?」

「ん? いやな、ちっとの時間でも惜しいべ。……ミサは、今日であの世さ行っちまう訳だしない」

「……。うん……」

 分かっていた現実を改めて確認すると胸は少しだけ引き攣って痛みを感じる。それでもミサヲは寝返りを打って私に笑顔を見せてくれた。

「……こうしてない、友だちっつう関係を越えてさーやの脚の上で横になってっど幸せな気分になんない。んん……」

「……ミサ……」

 ミサヲは嬉しそうな表情のまま彼女の頭を私の腿に擦り付ける。こうしているとミサヲの幸せというのが汲み取れて自然と頬が上がる。夜に感じた負の気持ちを孕んだ欲求は彼女の笑顔の前では敵う訳がなく気持ちが楽になってくるものである。

「あ……踏切の音が聞こえるね。もうそろそろか」

 聞き覚えのある音が遠くから聞こえてきて注意がそちらに向く。それを聞くなりミサヲも起き上がって私の名前を呼んだ後頬に彼女の唇が優しく触れてくる。辺りからは蝉の声や野鳥の声がこれでもかと聞こえているけれどそれらを凌ぐ彼女の行いに私の顔は熱くなる。ふとミサヲの表情を見ると口を薄ら開きながら笑顔を私に見せる。そしてミサヲは瞼を閉じて私に近付いて、私たちは短く口付けを交わす。特に何かがあったと言う訳ではないけれど、少しでも多く触れたいと思っている私たちにはそれらが理由というには十分なものである。唇を離し頬を染めた顔を眺めている間に電車は私たちの側に到着したのであった。

 立ち上がって乗降口に立つと、現在ではあまり見慣れない押ボタン式のドアが目の前を塞いでいた。扉横のボタンを押してチャイムと共に車内に入ると、季節柄クーラーが聞いていて蒸し暑かった身体を涼しくしてくれる。辺りを見渡すと人影は居らず、静かな空間の中にある鉄道会社のポスターだけがクーラーの風になびいていた。

「いやいや、貸切状態だない。人も少なくなっちまっだんだなぁ……」

「今は車を持ってる人も多いだろうしね……。折角だからボックス席に座ろうか?」

 普段なら大人数でないと座ることを躊躇う席も今なら座ることが出来る。ミサヲを連れてそこへ向かうと柔らかめの座席が私の身体を包み込んだ。

「……さーや!」

 ミサヲはそう言いながら私の隣に座り込んで再び私の太腿に頭を乗せる。乗せる分には構わないので私はそのままミサヲを寝かせ、通路側にある肘掛けに腕を乗せて発車される時を待つ。

 私の太腿に頭を乗せているミサヲは私の顔を見ては笑みを浮かべては私の腹目掛けてにじり寄ってくる。両腕さえも小さくまとめているからか彼女は私の腰に腕を回してこない。それと比べると私たちの密着する距離は遠くなってしまうけれど、気持ちはそれと同じくらいに嬉しかった。

「……さーや。眠がったら寝ててもいいぞい? ミサが起こしてくれっがら」

「……とか言ってて寝過ごしちゃったら笑い話になるよね?」

「まあまあ! 大船に乗ったつもりで!」

「ふふ……。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな?」

 私の身体は正直なもので、早起きに慣れていない身体は疲れを眠気に変えてその重さを私に課す。そうしていると発車するベルが鳴り響いて車輌は静かに動き出す。そのゆっくりで心地の良い動きが相乗して眠気が一層強くなってくる。

 瞼が重くなって意識も遠のいていく。瞼を閉じて目の前にある僅かな光の筋はテレビの電源を切った時のようにフッと消えてなくなって私は眠りについていくのだった。



「『――次は、笠野。笠野です。お出口は……』」

「……。んん……」

 ふとアナウンスが聞こえてきて目を覚ます。寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見渡すと、乗った当初よりは人がいて乗ってから時間が経っていたことを教えてくれる。未だに呆ける頭で状況を整理させようとしていると、私の脚の方からミサヲの眠たそうな声が聞こえてきた。

「あ、おはよう……。ミサも結局寝ちゃってたんだ……」

「ん、ああ……悪ぃない……。けどはぁ着くべで? 今何処ら走ってんだべ……」

「『……えーっ、御乗車ありがとうございます。次はぁ、笠野でございます。お出口は右側です……』」

「んー……。笠野ない……なんだ随分と早ぇごどない……。……。笠野ッ!?」

 突然大声をあげてミサヲは車窓に張り付く。

「な……ど、どしたの?」

「……! や、やっちまっだ……!」

「……。……まさか……!」

 彼女のその言い方に私の鼓動は段々と早くなってくる。もしや……!

「さーや! すまねえ! 思いっぎり寝過ごしちまっだ! おまけに笠野は時宮の二駅先だわ!」

「ええ!? そ、そん……ムグ……!」

 急な出来事に混乱してつい大声を出す。それを見たミサヲは私の口を両手を使って塞ぎ込む。何事と思っていると、私の近くに居た人々が怪訝な表情を浮かべてこちらを見ていた。つい誰かと居る気がしていたけれど他の人からは私一人しか見えていないのだ。それを考えると急に恥ずかしくなって私の身体は小さく縮こまっていった。

「ど、どうするのよ……!?」

「……今来た道を戻るしかねえな……。こ、この通り……! すまねえ……!」

 他の人たちに怪しまれない程度に小さな声でやり取りをする。こうなってしまってはあれこれ言い合ってもどうしようもない。

「……。とりあえず笠野で降りっぺ。引き返すにはそれしかねえな……」

 細く弱々しいミサヲの声がこちらに聞こえてくる。別にミサヲが悪いのではない。ミサヲばかりに頼ってしまっていたこちらにも責任がある。けれど腑に落ちないこの気持ちではそんな彼女の声を聞いてしまうとこちらの士気が下がってしまいそうだ。

 それから間もなくして電車は止まり笠野駅に到着した。私たちは揃って電車を降りて、蟻鉄駅から時宮駅までの電車賃を払っていないので不足分を車掌に支払って出口を目指す。ホームと駅舎に挟まれている線路を渡って改札口を出ると、時宮の街中とは比べ物にならないほど静かでのどかな風景が私たちを出迎えたのである。

「……久しぶりに笠野なんて来だな……。……はあ、情けねえべ……」

「ま、まあまあ……。過ぎちゃったことだし仕方ないでしょ……。それより次は何時に時宮行は来るんだろ」

 身体を翻して近くの時刻表を見てみる。大きく掲げられた時刻表の中から時宮行きの時間携帯電話の時刻と照らし合わせてを探すと、次の出発時間は今から一時間半後のようだ。

「……一時間以上も電車に乗ってたんだね。こんなに電車に乗ったの久しぶりかも」

「……ハアァ……」

「もう、そんなにジメジメするような溜め息つかないの! ミサらしくないよ?」

「……。だっでよ、ミサが言い出したことだべ、これは。世の中うまく行かねえことばっがりつうのはホントのことだない……」

 ミサヲは何時になくしおらしく溜め息ばかりついている。そんな彼女の姿を見ているとこちらまで憂い気持ちを持ってしまう。

「……とりあえず、散歩でもしようよ。ホラ、そんな顔をしてたら増々重い気分になっちゃうってば……。さあ、あそこに居るおばちゃんたちのようにニコニコして!」

「誰がばっぱだで……」

「もう、ミサのことじゃなくて……!」

 そんな話をしながら歩き始める。駅前には車が停めるためのロータリーがあるが、広さの割には車が一、二台ほどしかいない。そんな静かな場所だからこそ大きな声で談笑する人たちの声が大きく響いて聞こえてくるのだった。

「笠野か……ミサんげの肥やしを仕舞っどぐ倉庫は笠野にあっだっげな……」

「へえ……ミサの家ってこっちにも畑とかあったんだね」

「畑もそうだけんちょ山もあったぞい。山っつうか丘ぐれえの規模っつうか……」

「え!? ……ってことはミサの家ってお屋敷とかそういうクラスだったの……!?」

 あくまで想像であるが、規模はどうあれ山を土地もとい財産として持っている農家というのは結構な家柄なのではと考えてしまう。考えてみればミサヲは家は農業だけではなくそれらを加工して食品も販売していたと言っていたはずだ。

「お屋敷……なはは! あだ穴だらけで築百年以上ぐれえだったあのボロ屋がお屋敷か! まあまあ夢がある妄想だごと……なはは……!」

「い、いいでしょ……! でも素直に凄いって思ったよ。知ってる人でそんな人は居ないし……」

「まあ、あんまし居ねえべな。それにミサんげは旧家だったし尚更だべで。ついでに言うとお手伝いさんも居たぞい?」

「……! ミサ、お嬢様ってことになるの……!?」

「……なんだのその目は……?」

「……。想像してたお嬢様と違うなって……ふふふっ……」

 お嬢様という人物を想像すると、どうしても物語の中に出てくるような大げさな金持ちの家の人間で雲の上の人というイメージを思い出してしまう。それを考えるとミサヲは庶民的でとても馴染みやすいものだ。

「ぬ……! パンチラが好きな阿呆お嬢でどーもすんません!」

 顔の中心に全ての皺を寄せる勢いでミサヲは可愛らしい表情をくしゃくしゃにする。そして彼女はその場で腰をくねらせながら妙な踊りをし始めた。

「……ミサ、怒ってるの?」

「いいや? 悔しくて踊ってるだけだぞい?」

「なんで踊り出すのよ……」

「知りません……尻だけに?」

「……。頭痛い……」

 非常に下らない言い草である。この時ばかりはミサヲの母親に同情してしまう。

「なはは! ま、怒っでねえがら安心してくんよ。やることなくて踊ってただけだわ」

「……ならいいけど……。でも本当にびっくりだよ。ミサの育った環境っていまいち聞いたことなかったしさ」

「まあ、家柄はそんな感じだったけんちょごく普通の家庭とおんなじだったぞい。ミサも同級生をよくつっちきでたしなぁ」

「へえ……。何だか興味深いよ……」

「ほお……? ならまっと聞かせっがい? ミサのカラダで……!」

「……! ……」

「……。鼻血出てっぞい」

 ミサヲの意味深な発言に瞬きをすることすら忘れていると、突然言われたミサヲの指摘に思わず自らの鼻元を確認する。しかしそこには何もなく、ミサヲは眉を上下させてほくそ笑みながら妙な眼差しを私に向けてきたのだった。

「しかしまあ、なんもねえぞな。暇潰すっつったってなぁ……」

「まあ、こっちにはあんまり来ないみたいだし観光だと思えば……」

「地元さ居て観光ない……。ああ、元気なのは犬とばっぱちゃんだけか……」

 ミサヲは手を後ろ頭に回して歩き出す。私もミサヲに倣って歩き出すと、彼女の言う通りで人通りの少ないここで聞こえてくるものといえば近くの家から聞こえてくる人の笑い声と犬の鳴き声だ。

 それにしても大分大きな声で世間話をしているものだ。周りが静かだから尚更大きく聞こえてくる。

「なはは、ここまで聞こえてくっどプライバシーも何もねえない。ま、それがここらの人っつうもんだべけど」

「私の家の方と逆だね。話し声はそんなに聞こえないけど車だとかの音ばっかりでつまんないよ」

「今はばっぱちゃんらが居っがら賑やかだけんちょ帰ぇっだら一瞬にして静かだべで……おっ? そんな話しでだら終わったみてぇだない」

「……ほじゃない! また後でくっがんないヒサノちゃん!」

「なはは、ややちゃん居っと大変だなぁ! またない……」

 そんなやり取りが聞こえたあと、会話が聞こえていた家の門から鎌を担いだ人影が現れこの場を後にする。そして私たちはたった今聞こえてきた言葉に対して顔を見合わす。聞き覚えのある名前に私たちは揃って目を何度も白黒させた。

「……。聞いた? 今の……!」

「……聞いたぞ……! いや、まさか……!」

 恐らく私たちの中で思っていることは同じに違いない。確かに聞こえてきたヒサノという単語に私たちの身体は共に動き出す。

 必要はないのについ門柱に身体を隠しながら中を伺う。ミサヲもまた私の身体の下から顔を覗かせる。私たちの目線の先には縁側に座る老年女性が居たのである。その光景に対してミサヲは小さく声をあげた。

「……おっ母……! おっ母だ……!」

 そう言ってミサヲは一目散にヒサノの方へと駆け出す。彼女を止めに入ろうとするが、その必要はないと考え私も静かに門をくぐり中へと進んでいく。門から半分までの距離を進むと縁側に座るヒサノの視線がこちらに向いて驚いた表情から笑顔に変わり、柔らかく深い笑い皺をこちらに向けてくれたのであった。

「こんにちは。ごめんなさいくつろいでいる所をお邪魔しちゃって……」

「はいはい、こんにちは。……なはは、なんだってめんごい姉ちゃまだない? どこげの人だい?」

「えっと……太郎坂の藤原です。……ああ、えっと……」

 いつものように挨拶をしてしまって思わず口を塞ぐ。それに対してヒサノは首を傾げた後声をあげた。

「ああ! 善ちゃんげかい?」

「あ……はい! 善友の孫娘の藤原紗綾です」

「あらあら……善ちゃんにもこだめんごい孫がなぁ……。さーやちゃんつうのがい? 善友じっつぁまには世話になってない……」

 会釈しながらヒサノと会話を交わす。すると今までヒサノの前で黙っていたミサヲが振り返って、彼女は複雑な表情を浮かべていた。

「かああ! おっ母、なんつうまあしわくちゃになっちまっだこどなぁ……! こんじはお山のボス猿だべ………!」

 それが実の母親に対しての言葉なのか。しかし今の状況では突っ込んでいる暇はない。

「どれ、お客さんが来だがんない。何か持っでくっがらそこさ座っでんせ」

「あ……お構いなく……」

 ヒサノはそう言ってゆっくりと立ち上がって家の中へと姿を消す。父の話では百歳と言っていたはずだが彼女はかなりしっかりとした足取りであった。

「さーや、折角だし座ってだらいいべ」

「う、うん……そうだね」

 ミサヲにも促され新しめの木製の縁側に腰掛ける。ミサヲも私と距離を少し空けて脚を縁側にぶら下げながら座る。横から見た彼女の表情は悪態をついていたにしても笑みを浮かべどこか安心しているような顔をしていた。そうしていると家の奥からヒサノが私の名前を呼びながら戻ってきたのだった。

「わざわざこっちゃさ来だのがい? ほんじは暑がっだべ? ほれ、しゃっこいがら一服しんせ」

「わ……ありがとうございます!」

 ヒサノから汗をかいた缶コーヒーを手渡される。冷蔵庫に入れられていたであろうそれは非常に冷たくて心地いいものだ。折角頂いたのだからと、ヒサノに礼を述べてから蓋を開けて口にする。すると舌を通じてきたのは非常に甘ったるい、コーヒーとは思えない砂糖水のようなものであった。しかし缶を見てみると確かにコーヒーと銘打ってあるのである。

「しかし善ちゃんげにはこっちさ知り合い居たっげがな? なじょしてこっちさ来たんだい? 誰さも西村総合から引っ越しだなんで言っでねがっだのに」

「……。それで……。えっと……私、ここに住んでないのでお祭りに関する話を父から聞いて興味を持ったんです。……そしたらミサヲさんの話になって……どんな人だったのか知りたくて、ヒサノさんに逢いに来たんです。……ここへ着いたのは寝過ごしちゃって偶然着いただけなんですけど……」

「なはは! だけんちょ、はああ……なんだ、勉強熱心だごとない! しかしまあ、確かに太郎坂の祭りっでなっどミサヲは自ずと出てくっぺな! そらもう子猿のように毎日山さ遊びに行っでだぐれぇ元気などら娘だったがんなぁ」

「だ、誰が子猿だで……!」

 そう言ってミサヲは唇を横に伸ばして薄くする。ミサヲも同じことを言っていただろうに……。

「……だけんちょ、ミサヲは幸せだなぁ。はあ、三十年ぐれぇ前だべで? こうやっで昔のことだっつってもミサヲのごとを知りてぇっで来んだもの……。さーやちゃんのお父っちゃまは大助くんだない? したらミサヲがなじょして死んちまっだが聞いてんだべ?」

「……。はい……どうしてそうなってしまったのか、それが聞きたくて。……とても失礼なことだって分かってます……だけど、他人事とは思えなくて……」

 現に私にはそのミサヲのことが見えている。その事実は他言することではないので伏せるが、ミサヲについて知りたいと言うのは確かなことだ。その想いはミサヲがまだ生きている母に逢いたいという気持ちも併せ持っているのである。

「なはは! 物好きだない……今となっちゃミサヲと話すことは出来ねぇけんちょ、一人でも思い出しでくっちぇる人が居っど、ミサヲも草葉の陰で喜んでっぺで! 今ミサヲのことをよぐ憶えでるのはオレぐれえだべがらない」

 ヒサノは笑いながらコーヒーを口にする。

「ミサヲはな、じっどしてらんにぃ様な娘でな学校がら帰ぇっでぐるどいつの間にか居なぐなっでてない。昔は今みだぐ若けぇ人も多がっだがらどこさ行ったかすぐに分かっでな、どこかさ行っちまうっつうのはなかっだなぁ。だけんちょ、それが高校さあがっでまでやってだもんだがら嫁さ行けんだべかっで思っでだない……」

「……大きなお世話、大きなお・せ・わ……!」

 腕を組み難しい表情をしているヒサノに対してミサヲは眉間に皺を寄せて小声で野次る。きっと生前もにこんなやり取りをしていたのだろうと思うと顔が綻んでくるものだ。

「ま、学校じゃげっぺとぉ(※要するにビリ。不良や落ちこぼれとも)でながったがら文句は言わねぇがっだな。それどころか一番取ってくんだがらたまげたない。県で頭の良い女子校さ行っででな、それは誇らしがっだない」

「……な、なんだの……今までそだこと言わねがったのに……気色悪ぃ……」

 ミサヲはそう言いながら顔を赤くしてもじもじとし始める。ということは普段彼女はミサヲに対してこういうことを言ったことがなかったのだろう。いわゆる本人が居ないところで褒める性格のようである。ヒサノからすればここにはミサヲは見えていないのだ。だからこそ、ヒサノはこんなにもミサヲのことを褒めちぎっているのだろう。ミサヲについて話すヒサノの表情はどれを取っても嬉しそうな表情であった。

「……。でもな、ミサヲはあんな風に死んじまってな。……あん時はな、農機具泥棒の仕業だったんだわ。太郎坂ではわげが初めてだったみてぇで、目を付けだ所が悪かっだんだべな、すぐ捕まったんだない。後から聞いてみっど、農具を盗んで逃げやすいように火を付けてづらかっでだんだとよ。今みたぐケータイだとかそういう便利なものが無がっだがらそれが一番の方法だったんだべで」

「……。けど、それをしたせいで……」

 ヒサノの話を聞く限りだとその方法で死者を出したのはミサヲが初めてだったようである。以前祖父が農機具の広告を眺めていたのを見たことがあるが、田畑を耕す機械というのは結構な値段がするもので、自動車といい勝負なものばかりである。それを考えると盗みを働いて売り払うということがあっても可怪しな話ではないだろう。

 とは言え、盗む側にどんな経緯があるにせよ家に火を放つなど、ましてや一人の人間の命を奪うなど以ての外だ。ヒサノが話してくれているその時の様子を聞いていると不思議と缶コーヒーを握る手に自然と力が入ってしまう。

「……。さーや……」

 ふとミサヲがこちら側にやって来て隣に座り込む。そして彼女は私の腕に手を置き、ミサヲの表情は少しだけ辛そうな表情をして、小さく頭を横に振っていた。

「だからない、ミサヲが死んじまった時は何も考えらんにぃがっだない。怒りも悲しみよりも先に来たのは……呆げることだっだ。今思えば突然のことでよっぐ考えらんにがっだんだない。わげの父っちゃが言っでだわ、白い肌がまっと白くなっちまっでるってない。事態が落ち着いで、ミサヲの葬式が出来てがらようやく涙が出てきたない……。……ミサヲがらすりゃ血も涙もねぇおっ母だっで言われっちまいそうだけんちょ、ほんに大切なものを失っだ時っちゃ、何も考えられなぐなっちまうんだっで……その時オレは七十近かっだけんちょ――ユキヰの時よりもうんと辛くで、人前で泣いちまっだない……」

「……ゆきい、さん……?」

 聞きなれない名前に私たちは顔を見合わせる。ミサヲにも憶えが無いようで首を傾げた。

「あら、善ちゃんや大助くんがらも聞いたごどねぇがい? ……まあ、善ちゃんも義理堅でぇどごもあっがらあんまし話さねぇがも分がんねぇな。ユキヰっつうのは――ミサヲの本当のおっ母のことだわ」

「……!? なっ……!」

「……本当の、お母さん……!?」

「んだ。オレからすりゃユキヰが娘でミサヲは孫になんだない」

 ヒサノから真実を告げられ、その内容に驚いて私たちは言葉を失う。ヒサノがミサヲの本当の母親ではない。長年ミサヲが母と言っていた人からの衝撃の真実に私たちは硬直したままになってしまったのである。

「ユキヰはない、嫁に欲しいっで男が何人もわげさ来るほどだったけんちょ、ユキヰはまあ恥ずかしがり屋で中々来てくっちゃ人と会おうとしねがったんだわ。けんちょ尊法(たかのり)……ミサヲの本当のおっとぉとは自然と気が合ったみてぇですぐ仲良くなっでない。ほんでユキヰが結婚することさなっで、尊法はもこ様(※婿)でこっちゃ来ることさなったんだけんちょ、その時勤めでだ発電所の仕事が落ち着いたら来る訳だったのよ。尊法のヤロはまあ勤勉でほっとけなかったんだべない、婚約をした後すぐ仕事場さ戻っちまっだ。ほんでそん時にユキヰの腹さミサヲも出来て、後は尊法が来るだけだったんだけんちょ……」

 ヒサノは一呼吸を置き、先ほどの柔らかな笑顔から辛そうな表情を浮かべ始めた。

「ユキヰは元々身体が弱くてない、つわりがある度にがおって(※風邪をひく、病気になるなど)な、顔を青くしながら日に日にずなくなる腹を大切そうにしてたっげない」

「……おっとぉ、おっ母……」

「そうしてだっげ、尊法もなぁ……そん時起ぎでだ事故を何とかするために躍起になっででな、人を守るために日々働いて我がもハイカラ病さなっちまっで……ユキヰがミサヲを身籠っで半年経っだ頃に死んちまったんだ……」

「……」

「その知らせはすぐにこっちゃ来て、ユキヰは吠えるように泣いてたない。尊法が勤めでだ会社の上の人らが毎日のように来てだけんちょユキヰは最後まで逢うことはねがっだない。ユキヰはどう思っでだが分がんねぇけんちょ、そらある意味見殺しにした人らには会いたくねがっだべな。……ほんでユキヰはその日以来うんと母親らしい顔付きになっで、身体が弱ぇっつうのを感じさせねぇほど毎日を過ごしてたんだわ」

 ヒサノは空を仰ぎながらゆっくりと語っていく。ヒサノ顔には悲しみに暮れる表情もなければ笑顔もなかった。どこか遠い記憶を目の前に映して語っているように見える。

 話に一区切りが付いた頃に私とヒサノ間に微温い夏の風が駆け抜けていく。その風を浴びて、私の頬を静かに伝う足跡に気が付いて顔を伏せる。その時にミサヲの姿は見えなかったけれど、私の服を掴むミサヲの行動で私の側に居るということに変わりはないと感じることが出来たのである。

「……でもな、身体が弱ぇっつうのには変わりはなくて、臨月を向かえる頃には頬がこけっちまっで、ミサヲが生まれる一ヶ月前がら入院してたんだわ。ほんでいよいよ産気づいて、日が変わっで少しした後元気なミサヲの産声があがったない。……だけんちょ、産まっちゃって喜ぶ間もなく周りが慌ただしくなったんだわ。ユキヰはミサヲを産んで体調が急激に悪くなっで……。ユキヰは我が子を手に取ることがねぇまま、そのまま死んじまったんだない……」

「……っ。……そんな……」

「オレたちは不運すぎる両親たちの間に産まっちゃ子どもを、ミサヲを……せめてミサヲだけでも幸せにしてくっちぇっつって、産んでくっちゃ母親と同じカタカナで、一文字だけ字を変えてミサヲと名付けたんだ。これまでもこれから先も実のおっ母を見っこともねえがら、名前だけでもとオレたちは名残にど、意思をしっがり持っだ、産まっちゃ夏の候(みぎり)に負けねえぐれぇ爽やかでいるようにどミサヲと名付けたんだない。ミサヲはそれに応えてくっちぇな、まああ元気すぎる位に育ったない」

「……。……ふふっ、とても活発な方だったんですね」

「活発も良い所だなぁ……うさんこ(※カマドウマ)をひょいと持ってこっちゃくんだもの、女のすっこどであんめっで良っぐ言ってやっでだっげない、なはは……!」

 その話に私たちの間から久しぶりに笑い声が上がる。

「……。はあ、あの頃が懐かしいない。今となっちゃ太郎坂に家はねえし、その土地は善ちゃんにくっちゃがら取っ消す訳にもいかねえがらない。まだ残ってた土地っつうのも笠野の倉庫だっだがらその建物のあった所をぼっこして新しくしたんだ、この家は。老人ホームは快適だけんちょオレにしちゃこっちの方が住みやすいない。……こうして昔のことを思い出せるから尚更、ない。……。ミサヲにはな、高校を出たら話してくれっがど思っだんだわ、本当の両親についてはな。学生の内にゃその事実はあまりにももごいって言っでだがらそうしてたんだけんちょな、遂に言うことが出来ねえままになっちまっだ。……ほんに、ミサヲには、ユキヰたちには申し訳ねえっで思っでる。こだばっぱばっがり長生ぎしっちまっでな。……ミサヲもなぁ、十七であの世に逝っちまっでなぁ……本当の親の顔を見たことねえがらあの世で会っだどしでもわがんにぃべな……。あの世さは実質ミサヲ独りで逝っちまっだことになっがらない、うんともごがっだべで……? ミサヲなぁ、わげねがっだんだべがなぁ……」

 ヒサノはそう言って両手を合わせ拝みながら再び空を仰ぐ。ふとヒサノの顔を伺うと、遠い目をしていて彼女の瞳に映る青空は涙に滲んでその青さを潤ませていた。そうしていると隣に居たミサヲが飛び降りてヒサノ隣に座り込む。その時のミサヲの表情は今までにないほどの満面の笑みを浮かべてヒサノの手をそっと握ったのである。

「……おっ母。確かにミサは他のお母っちゃまと比べでやけに老けでんなぁっで思っだこともあったけんちょ、おっ母はミサのおっ母だっで信じてたぞい。……正直、ミサの本当のおっ母のことにはたまげたけんちょ、うんと……悲しくなったけんちょ、ミサな嬉しいぞい。ミサ……今までのこと、時が経ちすぎて忘れかけてたんだわ。でも、今そこに居るさーやがミサのために記憶を探してくっちぇんだ。だがらこうしておっ母の所にも居っぺし、忘れていた何もかもを思い出してミサの心がどんどん晴れてきてんだ。……ほんに、頼もしぐで、ミサの何もかもを任せられる……ミサは、そんな嫁様を見っけらっちゃがら、なあんも心配いんねぇぞい!」

「……お、およめさ……!?」

「……。だがらな、我がのことを責めっごとねえよ。そうしてでも辛いことを蒸し返すだけだべ? ……元気そうに暮らしてで良かっだわ、おっ母。元気が取り柄だったヒサノ先生も今でも健在っちゃ喜ばしいことだべ! ……ありがとうない、おっ母! ……ミサらはそろそろ行くべで。ほんじゃ、いまっと長生きしてくんよない……また来っがら……」

「……ミサ……」

 ミサヲはヒサノの肩に頬を寄せて甘える素振りを見せる。少しした後ミサヲは側から離れると、ヒサノからは笑い声があがったのだった。

「……。なはは。なんだ、今ここさミサヲが居たみてぇだなぁ。ミサヲの懐かしい声がオレに話しかけてくっちゃわ」

「んな! おっ母、遂にボケたが!?」

「コラ……。ヒサノさん、ミサヲさんはなんて?」

「なはは、あの世はおっ母には勿体ねえがらまだこの世さいんせってよ。んまっだぐ、あの世さ逝っでちっとは大人しくなってっがど思ったけんちょちっとも変わっでねぇな」

「ミ、ミサそこまで酷くねえべ……! いまっとソフトでだなぁ……」

「……ボス猿だとか遂にボケたとか言ってたクセに……」

「なっはっは……! ……いやいや、こりゃ良い物を感じさせてもらっだわ! どうもない、さーやちゃん」

「い、いえ……私は……」

「あ、んだわ。さーやちゃん、ちっと待ってんせない」

 何かを思い出したようでヒサノは再び家の中へと入っていく。少しした後、彼女は封筒を持ってこちらにやって来たのである。

「それは?」

「写真だぞい。ユキヰと尊法と……ずなくなった頃のミサヲの写真だわ。これを持って行ってくんよ」

「えっ……!? そ、そんな大切なものを頂けませんよ!」

「いやいや、今となってミサヲたちのことを知ってるのはさーやちゃんだけだべ。それにオレはそんなに長く生きらんにぃがらよ、ミサヲたちのことを良っぐ知ってるさーやちゃんさ貰っで欲しいんだわ。それにこっちには遺影もあるし、なんも不自由ねえしない。オレ以外に憶えていて貰える人が居っと、ミサヲたちもそれは幸せなことだべした? だがら、ない?」

「……。……分かりました。ミサヲさんたちの写真を頂戴します。……そして、大事にさせて頂きます……絶対に……」

 ヒサノから封筒を手渡されると、彼女はたちまち笑顔になって私に対して礼の言葉を述べる。こちらとしては礼を言う立場が逆だと思ってしまうけれど、今は託された想いを素直に受け止めていたかった。

「ヒサノちゃん、居だがい?」

 その声に私たちが声がした方を向くと、先ほどヒサノと話していた人が現れこちらにやって来る。

「あら、こっちのお嬢ちゃんはどちらさんだい?」

「オレの昔住んでた所さ住んでる、わげのおっとぉの友だちの孫だわ。ちっと昔話してくんよってわざわざこっちに来てくっちゃんだと」

「なんだ大変だない! まあめんこいことなぁ」

 そう言われて私たちは世間話で盛り上がる。ふとミサヲの姿が見えなくなって辺りを探すと、ミサヲは門の近くで空を見上げながら静かに佇んでいた。その後姿に思わず釘付けになったけれど、今の彼女に近付くことは出来ない……いや、そっとしてあげようと思ったのである。

 話したいことは沢山ある。けれど、それを成す為に彼女自身の中を整理させるにはもっと時間が必要であると、手の中にある封筒を風でなびかせながら、私はヒサノたちの会話に混ざりながら、立ち尽くすミサヲの後ろ姿を眺め続けたのだった。



「『――次は、蟻鉄。蟻鉄です。お出口は左側です』」

 あれから私たちはヒサノに折角遠くまで来たのだからと昼食をご馳走になっていた。未だに心の整理はつかないままだったけれど、ヒサノからの招待を蔑ろにするのも気が引けて私は彼女の誘いに頷いたのである。

 ヒサノは滅多に居ない若い人間と話すのが嬉しかったのだろう。彼女は終始笑顔で私に接してくれていた。そしてヒサノが振る舞ってくれた料理も非常に美味しくて、いわゆるおふくろの味というものを堪能させてもらった。それらは自然の味がここまで魅力的だなんてと驚くほどである。

 ……きっと、私と関わっていた間中のヒサノには、私の姿がミサヲと重なって見えていたに違いない。そうでなければ私が帰る間際の駅にまで見送りに来てくれたりはしないだろう。

 だからこそ心苦しかった。唯一の肉親から語られたミサヲの、久しぶりに解き明かされたミサヲの過去はどんな物語よりも、遥かに……。

「……。ミサ、そろそろ着くよ。……さあ、行こう?」

「……うん」

 行くときとは違い、私たちはつり革の下の座席に腰を掛けていた。そしてミサヲは私の腿に頭を置いて寝そべるのではなく私にもたれ掛かるように、両腕を優しく私の身体に絡めて静かに座っていたのである。

 程なくして車掌のアナウンスが聞こえてきて電車の進む速度が緩やかになっていく。そろそろ降りる準備をしなければとミサヲを促しながら席を立ち扉の前へ足を運ぶ。その間中もミサヲは一言も喋らず黙ったままだ。こんなにも喋らないミサヲを見るのは初めてのことだ。しかし、今の状況を考えればミサヲがそうすることも頷けるし無理に言うことが出来なかった。

 どこか上の空で眼を微かに転がすミサヲの表情と相まって、昼も中頃を過ぎた日光は抜け殻になってしまったようにしているミサヲを強調させていた。光の濃淡が変わる度にミサヲの姿は見え隠れして、その様子は次第に近づいて遠のいていく警報機の音よりも明らかであった。

 扉が開いて車掌に笠野からここまでの切符を手渡し駅の裏側を目指して歩くと、突然ミサヲが私の手を引いて歩き出したのである。ミサヲが歩き出す速さは結構なもので、突然のことに私の脚は縺れそうになってしまったのである。

「ちょっ……! ちょっと待って……!」

「さすけねぇぞい。取って食うわけでねえがら」

 ミサヲはそう言いながら歩を進めていく。駅を離れ近くの新しく出来た道路を横切ってミサヲに手を引かれたまま彼女の後を追う。そうしているとミサヲは近くの林の中を目指して歩き日差しを浴びていた身体はその林が作り出す木陰に隠れ、身体中を取り巻く温度が緩やかになっていく。辺りを見渡すと、自然が作り出した場所にしてはやけに整地されていて、よく見てみると土で汚れた看板には『自然公園』と記されていたのである。

 間もなくしてミサヲは立ち止まり、彼女から一緒に座ろうと勧められた。ふとミサヲの顔を覗き込むと、彼女の眉間は僅かに歪んで私の腕は抱きついてきたミサヲの身体に締め付けられたのである。

「……。……これで、良かったんだよね……ミサ」

「……。……。……うん」

 背後から聞こえてくる蝉たちの鳴き声を聞きながら私たちは肩を並べて座りながら同じ時間の中を過ごす。

 人は自分自身以外の気持ちなど解ることはない。相手が事細かに今の気持ちをこれまでの経緯を、今朝何を食べたのかを話したのだとしても、伝えきれるそれは全体の三割にも満たないのかもしれない。暑いと言っても湿気のあるものなのかもしれないし、朝食と言っても九時を過ぎてから食べたのかもしれない。不明確で曖昧な物でしか聞き取ることの出来ないそれらだけで全てを掴み取ろうというのは殆ど不可能なことなのである。――だけど、今の私には、今のミサヲの気持ちが痛いほど感じられるのだ。

「……ミサ」

 長い月日を通り越して蘇ったミサヲという人物の真実は遥かなもので、ミサヲの性格とは真反対で胸の奥が軋んで呼吸が詰まりそうになるほど辛いものだった。

 だからこそミサヲは私の手を握りしめ、何度も手のひらを捏ね回しては指を絡めてくる。それだけ言葉が出てこないほどミサヲの心には明らかになった事実が重く伸し掛かっているのだ。ちらりとミサヲの方を見ると、彼女はやはり浮かない表情をして地面ばかりを凝視していた。

「……。ねえ、ミサ?」

 せめてもと、そう言ってミサヲにこちらの太腿に頭を置くように伝えると、ミサヲは静かに頭を横に振って私の肩に頭を寄せた。そして彼女は私の腰に腕を回してこちらの身体を抱きしめたのである。そうしながらミサヲは私の腕に頭を擦り付けてきたのだった。

「……。ミサ……」

 その気にならなかったと言えばそういうことになるが、乗せてくれるかもしれないと思っていた気持ちは静かに拒まれ少しだけ寂しい気分になる。けれどもミサヲは私の腕を通して、今抱いている彼女の気持ちを紛らわせようとしているということを考えると、ミサヲの役になれているのだなとまた暖かくなり心地よい鼓動の高鳴りに思わず息を漏らした。

「……なあ、さーや……」

「うん? なに?」

「さっきおっ母がら譲り受げだ写真……見せてくんにぃが」

 ミサヲは私の顔を覗きながら小さな声でそう囁く。それに対して私はポシェットの中に仕舞っていた大事な写真の入った封筒を取り出しその口を開ける。指先で袋の中を探り、触れた写真を引っ張り出すと、少しだけ色褪せた写真が出てきた。その写真たちを手に取りその二枚を並べると、片方には先ほどヒサノが話してくれていたユキヰと思しき長い黒髪の女性と、角刈りの男性で笑っている顔がミサヲと瓜二つなミサヲの父・尊法が共に写されている物と、縁側に腰を掛け大好物のスイカを片手に満面の笑みを見せている――今私の隣に居るミサヲと全く同じ姿の彼女の姿が写された写真がそこにはあったのである。

「……おっ母……おっとぉ……」

「……ミサ、ユキヰさんと凄く似てる……。尊法さんの笑ってる顔も……とても……」

 この二枚の写真に映し出されている家族は、一度も語らうこともないままにこの世を後にしてしまったのだ。沢山の人々が生死を繰り返して沢山の時間を過ごしているこの世界ではその中の一つに過ぎないことではあるが、その経緯を知ってしまった私には胸に酷く突き刺さり呼吸が次第に辛くなってくる。

 この写真を見ている限りではとても幸せそうにしているのに、実際に起きたことを照らし合わせると手のひらが震え始める。巷では辛いからやりたくないだとか、些細な啀み合いで命が奪われたり奪ったり、果には自ら絶ってしまう者がいるというのに、どうして彼女たちのように幸せな未来を夢見ていた者たちも同じような運命に遭わなければならないのだろうか。一度はつながり合っていたはずなのに、確かめ合っていたものだというのに。どうしてこんなにも……こんなところにまで公平という秤(はかり)で人の行く末を決めてしまうのだろうか――

「……。……さーや、さすけねぇぞい……さすけねぇんだぞい?」

「……っ……! うんっ……うんっ……! ……でもね……でも、ねっ……! わ……わた……わたしっ……! わたっ……わあっ……わああああああああっ……――」

 我慢してきた気持ちが遂に壊れて涙と声が止め処なく溢れてくる。自分自身のことではないのに、今私の中で渦巻く気持ちは非常に曇って悲しみだけが占領していくのだ。こんなにも涙が溢れてくるのは、彼女たちの過去が辛く悲しいからではなくミサヲたちが辿った最期の壮絶さに嘆くのではなく――愛している人の背負った感情を抱きしめたら、涙は自然と込み上げてきて、想っているからこその愛しさに深く……心が貫通してしまいそうなほど深く突き刺さって、その大きすぎる痛みに私の口から溢れ出すどうやっても止めることが出来なかったのである。

「……。さーやは、人の為に泣いてくれんだな……。……時間っちゃ戻せねぐで、時間が経っちまっだ分うんともごいぞなぁ……。もう、元には戻っでくんねぇ」

「……えぐっ……んくっ……!」

「……けんちょ、これで良かったかもしんねぇ……いいや、これで良かったんだない……」

「……」

「さーや。確かにな、ミサのおっとぉとおっ母は既に死んでて、ミサを育ててくっちゃのは本当の親でねがっだ。して、ミサも神様の悪戯だか運命だがさ導かっちぇこういう姿さなった。……今こうしでみっど、さーやと逢うため、だったのかもしんねぇない」

「……。そん……なの……仮にそうだったとしても……あんまりでしょ!? ミサは、これが運命だったから仕方ないって……本当に思うの……!?」

「……。ああ、思うぞい」

「……!? ど、どうして……!」

「人はな、誰しも役目を持って生まっちぇくんだぞい。だからな、ミサが死んだ時で役目を果たしちまっでだらばこうしで化けて出てきたりしねぇべよ? ……だがら、もしかすっどミサは何か未練を残したがらこうしてさーやの前さ出てきてんのかもしんねぇ、そういう風さ思うんだない。それは充分に生きることが出来ねがっだことの悔しさなのがもしんねぇし、恋をするごどなぐ一生を終えちまっだことに対しての未練なのがもしれねぇ。だどすっどな、別にさーやが相手でなぐでもいいべしたよ。そこらさいるいい男に声を掛けても、まっとナイスバデェな姉ちゃまさ声を掛けても未練っつうのは晴れてくれうがもしんねぇんだ。……それでも、ミサはさーやを選んだ。さーやはミサとうんと歳が離っちぇで生きでだ時代も違う。そうなっどいっきゃうこともねがっだわけだべ。……ミサの、本当のおっ母、おっとぉは……命を落どしでまでミサさ人を愛するっつうことを教えでくっちゃ……そんな気がすんだない。……まあ、これはミサの勝手な想像だけんちょも」

 ミサヲはそう言いながら俯く私の顔を持ち上げて見つめる。その時の彼女は表情を歪ませながらも笑顔であった。

「だがらな、ミサはおっ母らがくっちゃ運命を信じるぞい。こだに素敵な人さ逢わせてくっちゃだなんて……ミサは、うんと幸せもんだべ――」

 そう言ってミサヲは涙が伝い続ける両頬に短く口付けをする。そして彼女は私の唇に触れて、顔を離して見つめ合い、再び唇に触れ合ってきた。

「……さーや、はぁ歩げっが?」

「……ううん」

「……ほだよな。そんじはもうちっどここさ居るべない。……ミサが居てくれっがら――」



「……ああ、大分暗くなっちゃったね。またお母さんに怒られそう」

「なはは、今晩は祭りさ行ってんだべ? したらちっどぐれぇさすけねぇべで」

 空が藍色になった頃。私はようやく歩き出すことが出来て、ミサヲを後ろに乗せながら広い道路の方に自転車を走らせていた。

「あ……ちょっとだけ囃子の音が聞こえてくるね。いよいよお祭りの始まりだね」

「……んだない」

「……。ミサ、今年はお祭りに行かなくてもいいの?」

「……さーやは行きてぇが?」

「……。ううん」

 こうして空の色が変わって夜が訪れた。それが意味するものは八月十五日という日が終わりを告げるということだ。そうなると、幽霊であるミサヲは……。それを考えた時の私の手には力が入り一緒に日が変わるまで一緒に居たいと強く思うのだ。そうしていると私の腰に腕を回すミサヲも力を強めて私との距離を一層近いものにしたのである。彼女がこういう風にしてくるということは、沈黙の中私たちの側を走り抜ける自動車にも動じない私たちの想っていることはきっとそういうことなのだろう。

「……よいしょ。さ、着いたよ。……おかえり、ミサ」

「なはは。ありがとない……おかえり、さーや!」

 そう言って私たちは互いに相手を出迎え合う。そんな可笑しなやり取りに笑いながら私はミサヲを家の中へ来るように促して玄関の扉を開ける。外側からも分かっていたが、今の家の中には誰も居らず辺り一面が暗闇で支配されている。

「……。行こ?」

 サンダルを脱ぎ廊下で並んで立ち尽くす。いつまでこうしていても埒が明かないと私の方からミサヲの名前を呼んで付いてくるように再び促す。するとミサヲは素直に従って私の腕に彼女の腕を絡ませてきた。

 そうしてミサヲを連れて私たちは部屋の中に到着した。私は電気をつけようと伸ばした手を止めてその行動を取りやめる。なぜなら今は暗い中でミサヲと一緒に居たいからであった。

「……ミサ、電気付けた方がいい?」

「いや? それは任せっぞい」

 私はその言葉に頷いて窓辺から溢れている月の光が溜まる所へと歩いていきそこへ座り込む。そうしているとミサヲは私の背後から腕を私の胸の辺りに回して寄りかかるように抱きついてきたのである。

「……。もうちっとだない……こうしてられんのも……」

「……。私、決めたよ」

 そう言うと、ミサヲは私に問いかけてくる。

「私、ミサが帰っちゃうまでは絶対に泣かない。一緒に居られる最後の時間までは、ミサと一緒に過ごしていたいから」

「……。うん、それはミサも同じだ……んっ――」

 ミサヲがそう返事をした後、私たちの間からは会話が途切れた。ミサヲは床の方にぶら下げた私の手を握りしめて後ろから口付けをしてきたのだ。彼女から贈られた口付けはどことなく温かく興奮しているように感じ取れる。それは私の方も同じでミサヲが唇を重ねる度、唇を重ね合う間から呼び合う互いの名前を呼び合う度に強くなって自然と声も唇を触れ合う音も大きくなっていく。

 次第に握られた手の動きが大きくなって、温かさを求め合うように握られ絡め合う動きも多く、大きくなっていく。ミサヲは握っていた片方の手を離して私の頭に添えてきたのだ。そして彼女は私の頭を撫でながら、髪の毛が乱れるくらいに強く撫で回していく。そうしているとミサヲの胸が私の顔を覆って微かに感じる彼女の柔らかな感触が頬を通じて伝わってくるのである。

「……ね……今晩は後ろからがいいの?」

「ん? いや、時の流れに身を任せてでだな……」

「じゃあ……前からして欲しいな……? 私、そっちの方が好きだから……」

「……! のほほ! ほんじは仰せのままに……!」

 ミサヲはそう言うと私の身体を引いて横になるように促す。彼女に言われた通りにするとミサヲは笑顔を見せながら私の上に跨って抱きつき始めたのである。

「んふ、さーやの顔を拝みながらちゅーとは……絶景だなぁ……!」

「お、大げさだよ……。……でも、そういう風に言いたくなるのも分かるかも。ここから見上げるミサの顔がすごく綺麗……」

「なはは……! さーやー……」

 そう言いながらミサヲはこちらに飛びつくようにして近付いてくる。彼女は私の顔を両手で包み込んで唇に触れ、またしても彼女の小さな下を私の口の中に差し込んで触れ合いを求めてくる。

 やがてミサヲは私の顔に触れていた手を離して再び私の手を握って口付けを続ける。そして彼女は口付けを交わしながら、下半身を擦り合わせるように小さくもぞもぞとし始めてその擽ったさに思わず声が出る。

「……。えっち……」

「なはは! ……ダメが?」

「まさか……んんっ……」

 私のその言葉にミサヲは手始めにと私の胸を触り優しくこね回す。そうしているとミサヲの優しい触り方に喉の奥から声が出てきて興奮へと変わっていく。

「……んん、はあはあ……! いやぁ、我慢出来ねぐなっできだ……! よっこら……」

「あっ……」

 非常に興奮した面持ちでミサヲは私の服に手をかけて一気にたくし上げる。下着まで引き剥がされて私の小さな乳房はミサヲの前に恥じらいもなく晒し出され、ミサヲはその様子に感嘆の声をあげたのである。

「なは……やっぱしこうでねぇとな……あむ……」

「……んっ……!」

 ミサヲに沢山身体を触られて、沢山口付けをされた私の身体の全ては既に、彼女の物にして欲しいと言わんばかりにそれらを受け止めるために身体のあらゆる所は敏感になっていた。彼女がその小さな唇でこちらの固くなった乳首を挟み込み擦られると柔らかい唇の感触と胸に当たってくるミサヲの熱い吐息に興奮が更に高いものになる。そしてミサヲは音を立てながら乳首を吸うものだから、どこか淫らで身体に電流が走っているようにビリビリと痺れが私の身体を襲う。それも空いている乳房をミサヲは指で優しく愛撫しているのだから尚更であった。

「あっ……ああんっ……! ミ、ミサ……赤ちゃんみたい……」

「ちゅぷっ……えへへ、おっぱい吸うのは楽しいぞなぁ……これは病気になんない……!」

「……うー……! 私もミサのおっぱい吸ってみたい……!」

「なはは! んだな……ミサもさーやに貪られてぇなぁ……!」

「……でも、私はこうやって触れる方が好きかも……。なんだか、あそこが凄くジンってしてくるし……」

「……あーあー! さーやまでマゾヒストがぁ……ま、ミサにとっちゃそっちの方が好都合だない――」

 ミサヲは一瞬目を見開いて驚いたようにしていたがそれはすぐに無くなり、それと同時に彼女の手は私のスカートへと掛けられ、スカートの下から手を突っ込み始めたのである。その突然の感触に驚きの声をあげると、その声を遮るように私の秘部はミサヲの指に突かれたのだ。

「あらまぁ……さーや、去年よっか……いや、昨日よっか濡れてっぞ……!」

「う……! だ、だって……今、これまでにないほど興奮してるんだもん……。自分でするより、凄いんだもの……」

「はああ! さーや、我がでやっちまうのが!」

「そ……そりゃそうでしょ……! ――わ、私だって……年頃の女の子だもん……」

「――ッ! あ、ああああ……!」

 私からの一言にミサヲは何故か凍りつく。……まさか、ミサヲにとって私が自慰するということがショッキングだったとでもいうのか……?

「……。……えっと、ミサ――」

「おおお……ッ! さーや! ミサな、今うんとムラムラしてきだ! 任せっせ、ミサ無しじゃ生きらんにぃくらいイかせてくれっがら――」

 そう言ってミサヲは口元に涎を垂らしながら私の脚を持ち上げる。一体どこに彼女のスイッチがあったのだろうか。まったく、よく分からない趣味なものだ……。

「ほれ、まっと開いで……!」

「……! やっ……やあっ……!? そ、そんなに広げないでよぉ……!」

「さすけねぇべ、今見てんのはミサだけだがらない……!」

 私の思いとは違いミサヲは私の太腿を掴んで両脚を一杯に広げ始める。そうすると私の秘部は彼女の前に曝け出されて、ミサヲの興奮した顔と相まって開脚していることに恥ずかしさを覚える。そんな私の気持ちを余所にミサヲは私の秘部に指で触れて、すでにぐちゃぐちゃになった私の愛液を掬い取って糸を引かせる。それも私に見えるようにわざとやるものだから、愛液の糸が月の光に照らされて尚更羞恥心が騒ぎ始めるのだった。

「ばっ……ばか、ばかばかっ……」

「いやあ凄いないコレは……! こんじはこっちを解す必要はねぇな……? したら、ミサも出来上がっでっがら……混ざり合うがい……?」

 ミサヲは私の方を見つめながら彼女のワンピースの裾の中から下着を剥ぎ取って脱ぎ捨てる。そしてミサヲは私の前に立ちワンピースを捲ってこちらに彼女の秘部を見せつけてくる。昨日も見た綺麗に揃えられた陰毛は太腿まで垂れた愛液が示しているように濡れて、彼女の秘部の唇は細かく震えていた。その様子に私の顔中の血液が一気に集まって熱くなる。けれどその様子を見ていよいよ交われるのだと、私の胸は安心感で包まれていくのだった――

「んっ……! ふぁ……っ! ミサぁ……!」

「ああっ……! す、すげぇ……うんとすんなめっで、クラクラしてくんな……!?」

 ぐちゅりっ、と大きな音を立てて私たちは一年越しで遂に再び結ばれた。ミサヲの言うように今まで以上に濡れた愛液は相手を求めていやらしい音を立て脳に刺激を送り続ける。

 そんな興奮があるからか、ミサヲの方も言葉を忘れて腰を振り始める。細かくかつ大きく振る彼女の動きには非常に敏感になった私の秘部にとって多大な刺激であり堪らなく気持ちのいいものだ。ミサヲは長い髪を揺らしながら私との行為に、交尾に耽って喘ぎ声を放つ。

 大きく上下する度に、前へ前へ突き動かされる度にその弾き出される音たちは音色を変えて部屋一杯に響かせていく。そして、その部屋の中に響くのは私たちの悦びに咽る声も然りであった。やがてミサヲはもっと快感が欲しいと腰を沈め秘部の唇の先を刺激するように何度も擦り合わせるのだ。そしてミサヲは私のことを離すまいと肩にしがみついて秘部同士の混じり合いを大きいものにしていく。

 彼女のその行いを助けてあげたいと、私からは触れられないと言うことを承知の上でミサヲの腰のある方に目掛けて足首を交差させて、ミサヲの身体に触れられているのならば彼女の身体にしがみつくような体制をとる。そうすると自然と秘部たちが触れ合う部分が変わって、互いの蕾を刺激し合うような体制になってミサヲは目を見開きながらその気持ちよさに悦びの表情を浮かべたのだ。もちろんこちらも同じ快感がやって来て私もまたミサヲと同じような表情をしているに違いない。瞬きをしていないということをようやく気付いたのだからそう思わない訳にはいかなかった。

「あ、ああっ……! き……きちゃっ……うっ……!」

「う、うう……! ミサも……! さ、さーや……さー……やぁっ……んっ――」

 そうして、言葉にならない叫び声をあげながら、私たちは共に絶頂を迎えた。私はミサヲの名前を叫びながら。ミサヲは私の名前を叫びながら快楽の頂きを見て共に身体を仰け反らせながら悦びに打ちひしがれる。私の肩に手を置く彼女の手さえもびくびくっと震え、ミサヲもまた私と一緒に気持ちを感じ合っていると認識して思わず口元が綻んだ。

「はっ……はあっ……! す、凄かった……今の……」

「……! さーや、待ってけろ!」

 一度行為を終えてミサヲの掴まれた身体が自由になって横になる。するとミサヲは突然叫びながら私の背後に抱きついて彼女に拘束される。何事だと思っていると、絶頂を迎えたばかりで敏感になっている秘部が再び触られる。驚いてその方を見るとミサヲの指がそこでうごめいていた。

「きゃっ……!? ちょ、ちょっと……!」

「……なはは、ただでは終わらせねぇぞ? イった直後にすかさず……!」

「……っ! やっ……あっ、あっあっ……! そっ……それ、だめっ……!」

 ミサヲは私の秘部に指を入れて激しく穿り始め、何度も膣内をかき回してきたのだ……! そんな彼女の行動に驚かせながら私はミサヲのなすがままとなり私は後ろ向きのままミサヲに押さえつけられてしまった。四つん這いになりミサヲは私の後ろから何度も秘部を指で突いてきているのである。

「だっ……!? やあっ……! イったのにっ、またイっちゃ――ふわああああぁぁぁっ……!」

 何度も突かれたことによって私の腰はびくついて何度も跳ね上がる。そうして晴れぬ痺れを身体中が駆け巡り、脳は朧気になって目の前に転がっている景色を呆けながら見つめる。

「はっ……はっ……。は、はげしすぎ……だよ……!」

「なはは……。だけんちょ良がっだべ? やっぱしさーやはいじめられんのが良いみてぇだな? これは良いことを聞いたな……!」

「……コラ、メモらない……!」

「なはは! ……ほれさーや? いつまで休んでんだ? 夜はこれからだぞ?」

「えっ……! も、もう出来るの……!?」

「んだ! ミサは体力が売りだがんなぁ……!」

「……すっごいタフ……。……でも、その方が……嬉しい……わっ――」

 あまりの回復の速さに驚いているとミサヲは急かすように私の身体を転がしもう一度とせがんで来た。そんな彼女姿勢が嬉しくて――愛くるしくて。私はもう一度彼女と身体を重ねようともう一度彼女を迎え入れた。

 ――そして私たちは、そのもう一度を何度も繰り返して、七回を終えた先は覚えていないと言うほど愛を確かめ合う交わりに勤しんだのであった……。



「ふわあっ……。い、いっぱいしちゃったね……」

「うーん、ここまで出来っとは……自分が恐ろしいない……」

「ふふっ……大体はミサのリードでしょ?」

「なはは! 正解! ……」

「……」

「……。はぁ、十二時になっちまうない」

「……。お父さんたちもとっくの前に帰ってきたしね」

「……いよいよか」

「……! あ……!?」

「さーや。目を瞑ってだ方がいいぞい。……こだ別れ方は、もごいべ……」

「す、透き通ってくるのが……速い……!?」

「んだがら、ない? ほれ、目を瞑って――」

「――や、やだ! 最後までミサを見つめ続けたい!」

「……。参っだな……別れる時ぐれぇは涙なんて見たくねがっだのに……」

「な、泣いてなんか……。……ないてなんかっ……!」

「……さーや、構わねぇぞい? ……辛いだけだべ……こだの、こだのっ……」

「……!? ミ、ミサ……!?」

「あ、あれ……? なして……なして、涙が……? 今まで、出たこと、ねがっだ……のにっ……」

「……ミサ……! ん……」

「……! ……ほだな、最後ぐれぇ恋人の感触を味わいてぇ……」

「ん、んむっ……」

「ふ、んっ……さー……や……」

「……ぷは……。……お願い、ミサが、ミサが見えなくなるまで……キスして……! 本当は離れたくない、離したくないから……おねがいっ……!」

「……分かっだ。この口付けは、さーやを寂しがらせねぇように……せめで、ミサの感触をさーやの唇さ残して……はむっ……」

「ミサ……んっ……。んむっ、ちゅ……む……ちゅっ……!」

「ん……ぢゅっ、ぢゅるっ……! あむ……」

「……んっ、んふぅっ……はあっ……んちゅっ……」

「むちゅっ……。……は、……ない。あたたか……ーやの……る、……う、さわらんにぃんだな……」

「……! やっ――嫌だッ! ミサ……ミサーッ!」

「さーや……じゃない……! ミサ……せだっだ……い……――」

「……」

「……」

「……みさ……?」

「――――」

「……やっ……やあっ! くちびる、はなさないでって……言ったじゃない……! 行かないでよぉっ……! ミサぁ……! ミサぁ……えぐっ……! みさぁ……行かないでったらぁっ……――」



 時は流れて、長かった夏休みは終わりを告げた。九月一日。今日は始業式の日だ。

 あれから私は、ミサヲと過ごした最後の日から抜け殻になったように日々を過ごしてしまっていた。それというのもミサヲの喪失というのが最も大きな要因で、中々立ち直れずに居た。去年よりも関係が深まった――去年よりもずっと仲が、ミサヲに恋をしているという気持ちが大きくなったこともあり、彼女の喪失は私の心に大きく穴を開けてしまったのである。

 そんな私の様子を見かねた母は何度も私に声を掛けてきてくれたが会話の殆どが上の空であったに違いない。今となっては彼女のその気遣いに対して失礼だと反省するべき所であるが、あの時の状況ではそうもいかなかったのである。

「……。……よし。行くぞ、藤原紗綾! いつまでも暗い顔をしてちゃミサに……ユキヰさんたちにも笑われちゃう。……決めたんだ、私は。……来年また逢えるかもしれないミサに逢うために自分を変えなくちゃって――ううん、自分を変えるんだ……!」

 そう自らに言い聞かせ、頬を叩いて校門をくぐり抜ける。早い時間とあって人影は疎らだが懐かしい学校の喧騒があちこちから上がり始めている。

 久しぶりに相まみえることとなった私の名前が記された下駄箱に下足を入れて上履きに履き替える。およそ一ヶ月ほど放置していた上履きは最後に履いた形を留めたまま固まっている為に少々履き辛い。けれど前に進んでいくためにはなんら支障はなかった。

「……あれ……?」

「わっ……ねえ、あれ……!」

 見覚えのある人たちの間を抜けて自らの教室へと辿り着く。ふと顔だけを教室の中へ入れると既に教室内には何人かの同級生がやって来ていた。

「……。……おはよー……」

 元々このクラスで友人が多いという訳ではなかった為に声のトーンを抑えて教室内に入る。その声に気付いた同級生たちはこちらに対して挨拶を返し、そして全員が目を見開いて私の姿を見つめていたのである。

「……ねえ、今来たの藤原さんだよね……?」

「う、うん……。なんかかなりイメチェンしたんだね……。でも凄く似合ってるよね……!」

 ……なにやらこちらに向けられている視線がかなり多い気がする。やはり、いきなりこの髪型にしたのはまずかったのだろうか――

「おっはよー! あ、おはよう! うっわー超日焼けしたじゃん! 健康的だねぇ、アハハ! ……っとと、紗綾は……あっいたいた! おっはよー久しぶりー! 会いたかったよぉ紗綾ー!」

「……なんであんたは初っ端からそんなに飛ばしてんのよ……。耳が痛い……」

「もーっ! 久しぶりに会えたのにそんなのってあんまりじゃん? 根暗ってだけじゃなくて心まで氷のように冷たくなっちゃったのかな紗綾ちゃん……は……は!? あ、あんた誰っ!?」

「……。藤原紗綾です。何か? 善方 陽さん?」

「……!? ほ、本当に紗綾なの!?」

「何度も言わせないでよ……。さ・あ・や! 分かった?」

「……こ、こりゃ大変だ……! 紗綾、ちょっと来て!」

「へっ……うわっ!?」

 教室に入ってくるなり陽は表情をころころ変えて私の手を引いて教室から連れ出される。かなり進む速度が速くて躓きそうになったけれど何とか持ちこたえて、私は陽にトイレへと押し込まれてしまった。

「ハァハァ……ビックリしすぎてついトイレに来ちゃった……」

「……別な所あるでしょ……」

「じゃなくて! さ、紗綾! どうしたのその髪!?」

 陽は目を白黒させながら私の髪を指差して驚きの表情を浮かべている。

 ――無理もない。私は、ミサヲの一件から自らを変えていきたいという願いから、背中まであった長い髪の毛の毛先を顎の辺りまで切ってしまっていたのだから……。

「どうしたって……イメチェン?」

「チェンジし過ぎでしょ!?」

「いや、イメチェンってそういうもんじゃないの……」

「……! さ、紗綾!?」

 陽は瞬き一つせずに私の腕を握ってこちらを見つめる。彼女の眼差しには非常に力が入っており、何を言いたいのか手にとるように分かるような顔付きであった。

「……。何か、あったんだね……?」

「……。……。……はあ、流石に陽はごまかせないか。そうだよ、何かあったからこうなったの」

「フラれた!?」

「……バカ!」

 かなり心配してくれているのだと思っていたが、彼女の一言で身体が一気に傾く。

「え? 失恋じゃないのに髪を切ることと言えば……ううむ」

「開口一番いきなりフラれたって聞く!? まあ、連想し易いから仕方ないか……」

「……。もしかしてあれ……? 夏休み前に言ってた好きな人こと?」

 何とも鋭いことだ。けれど一度話したことなのだ、すぐに思いつかれても不思議ではない。

「……そうだよ。陽……陽は親友だから話すよ。実はね……好きな人が出来たの、私」

「……」

「……その人は、ある事情があって遠い所に住んでるの。それで、一年に一度だけ八月にその人と逢うことが出来るんだ。……お父さんの実家に居る時だけしか逢えなくてね、今年は沢山一緒に居られたから、別れがかなり名残惜しくて、さ……。それで、こっちに戻って来た後もずっとどんよりしたままで……陽にも連絡が取れないでいたの。……ごめんね、連絡貰ってたのに」

 陽とは古い付き合いであるために、今まであったこと――ミサヲのことを伏せて話すが正直に打ち明ける。陽が信用できる人間だからというのも大きな要因だけれど、ここまでして理由を尋ねてきてくれたことが素直に嬉しかったから私は彼女にだけ本当のことを打ち明けたのだ。

「い、いいよそんなの……」

「それで、その人に会えなくなって……私はずっと泣いてた。だけどある日こう思ったの。いつまでもこんなことをしていたら、私の好きな人からもっと遠ざかっちゃう、離れていっちゃうって……。私は、そうなることだけは嫌だったの。だって……あんなに、素直に好きって言える人は初めてだったから……。だから、必ず生まれ変わってみせるんだって、そう決めたの」

「……紗綾……」

 話し終えると私たちの間には周りの賑やかになっていく声だけが取り巻いて私たちは揃って俯く。少しした後、陽は私の腕を握って名前を呼びかけたのだった。

「紗綾、私すっごく嬉しいよ! その、紗綾が好きになった人がどんな人か気になるけど……今はそれよりも、紗綾のその前に向かって行く姿勢にシビレてるよ! そっか……そっかそっか!」

「ふふふ……。迷惑や心配をかけちゃってごめんね、陽。必ず、陽にいい報告が出来るようになってみせるから……。私はその人にもう一度笑顔で会いたいから、面と向かって好きって言ってあげたいから……私は、今までの私を棄てた。私は、私はいつまでも昔の私じゃないんだって……!」

「……! くうう! 紗綾、あんた偉いよ! んもう、紗綾ちゃん愛してるぅ!」

「キモい、触んないで」

「ちょ! こ、心の冷たさは相変わらずか……トホホ……」

「ふふっ……ごめんごめん! ちょっとした冗談だってば――なははっ……」

「……!」

 思わず出てきた笑いに腹を抱えていると、目の前に居る陽の様子が可怪しいことに気付いて彼女の方を見てみる。すると彼女はまたしても目を白黒させ、彼女の表情は薄ら笑みが浮かんでいた。

「ど……どうかした?」

「……紗綾、なんかまた一段と可愛くなったんじゃない……? 今の笑い方にキュンとしちゃったぞ!」

「へ……あっ……」

 これは最近のことだ。笑顔を取り戻そうとして居た所笑い方がいつの間にかミサヲの笑い方に似てしまって、それに気が付いた私は戻してみようと試みたがどうやら癖になってしまったらしくその笑い方が抜けなくなってしまったのである。

 今となってはこの笑い方を戻す気は毛頭ない。だって、愛している人の口癖になったのだから、変える気も薄れてきてしまうというものだ。

「あ……予鈴なっちゃった! それじゃ紗綾行こうよ!」

「うん! 続きはまた学校が終わってからだね」

「そうだね! いひひ、これで紗綾をイジるネタが……」

「あっ、急用を思い出した。ごめん陽、今日は惨めに独りで帰ってくれない?」

「んな!? さ、紗綾ぁ……!」

「ウソウソ! なははっ……――」

 そんな他愛もない話をしながらそれぞれの教室へと向かって歩いて行く。

 今は、ミサヲのことだけを引きずっても仕方ないのだ。そうしていてもずっと引きずってしまうし、何よりそんなことをしていてはミサヲは喜んでくれないだろう。だから私は、先ほど陽に宣言したように変えていくのだ。来年もまた、愛しているミサヲと、恋人と沢山の時間を一緒に過ごすために……。

「……。ミサ、待っててね。来年もまた笑顔で逢いに行くから――」

 そう言いながら見上げた空に伸びる入道雲を映す夏空は、部屋に置いたフォトフレームに入れらたミサヲたちの写真もまたそれらと共に今年もまた沢山の思い出を飾らせて輝いていたのであった。

 

 

 

 

 


候の夏空さん(完)

 

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候の夏空さん 前編・中編・後編/2017.5完結作品(2017.6加筆修正)

前章:夏の夏空さん 【R-18】 - 趣味のおもちゃばこ

 

 

●あとがき

 

 はい。前回の夏の夏空さんの続編でした。如何だったでしょうか?

 

 お話の内容は前回と変わらずとある地方へとやって来た紗綾とその土地に住むミサヲとの百合百合えっちなお話であります。前回と違う点と言えば彼女たちを取り巻く世界が一気に広がったこと、ミサヲに対する過去の話が明らかになったこと、それに伴い紗綾の心情に微妙な変化が生じたということ、ですかね。

 先述した通り前回よりもかなり話の範囲も広がり細かな設定もこれでもかと出してしまいました。読者の皆様には少し置いてけぼりにさせてしまうかなと思いましたが、田舎というのは大変に広く調べようとするなら一ヶ月以上かかってしまいそうと思うほど(体験談)なので、それをふんだんに活かそうと試みた次第であります。……ですが大分長く書いてしまった点は反省していますorz

 なので自然の様子やその背景の描写、架空ではありますが土地の名前やそれにまつわるエピソード、ミサヲの真実に近付く度に重たくなっていく紗綾の心の変化。これらも目一杯盛り込んだつもりです。

 それに前回と同じく甘く切ないお話を届けることが出来たかなと、今はそう思っている次第であります。今回も今回とて一人称で話は進み、情報が不明瞭の中ミサヲの真実にたどり着いていくわけですが、少しずつ近付いて分かった先に見えた紗綾が辿り着いた先を今回は上手く表現出来たのかなと思っています。本文の中で紗綾が髪をばっさり切ってしまうシーンが個人的に気に入っています。しかし、四百字原稿で換算して三百枚近く書いたせいもありますが、表現の使い回しがちょっと多すぎたかなと、高校三年生にしては考えが大人びすぎていたり子どもっぽかったりと落差が大きすぎたというのがこんないの反省点です……いけませんね……。……これでは紗綾ちゃんが面倒くさいヒステリックな女ということになってしまうじゃないか……(

 

 でもまあ、そんなこんなで仕上げられてほっこりしている次第であります。

 このお話もまた続きますのでどうぞお楽しみに。

 

 では、今回はこの辺で。

 

著作:雨宮 丸/2017